第29回 担任
2019年3月1日 自宅
診療所から、家に帰ってきた。帰宅時の片づけを終えると、椅子に座り考える。「昔とは、大違いだ」前は家に着くと、まずはベッドに直行だった。高熱と疲労で、起きていられなかったのだ。それが今では、かばんの中のものを片づけ、服を着替え、椅子でくつろぐ余裕がある。
なぜ、変わったのだろう?
ここ1カ月の変化は、驚きでしかない。私自身よりも、周囲が驚いている。歩く速さも、顔色も、声の調子も違う。食事の量も増えた、前は1日3回も食べられなかったのに……。
答えはわかっている
『仮病』が重かったのだ。人に疑われ続けるのは、しんどい。原因不明なのだから、否定も反論もできない。我慢するか、笑顔でやり過ごすしかない。それが今では、「線維筋痛症です」とはっきり言える。
”ことば”の影響は強い
これまで、私は色んな”ことば”を受けた。真冬に冷水をぶっかけられるような言葉もあれば、寒い日を忘れさせてくれる日射しのような言葉もあった。どちらも石板に刻まれた文字のように残っている。
言った方は忘れていても、言われた方は忘れない
いじめられた経験もあるが、頭をけられて後頭部から血が出たことよりも、アトピー痕を見て「バイキン」と言われたことを鮮明に覚えている。
これまでの人生で辛い目に会うたびに「やり返してやろうか」と思ったことはある。でも、しなかった。中学校の頃の担任Y先生の”ことば”が頭に座りこんで、退いてくれなかった。
中学1年、秋の日の昼休憩だったか、私はある一人の生徒に嫌みを言った。その現場を担任のY先生に見られた。一人だけ、別室に呼び出された。
「いじめられているのに、同じことをするのか」
素直に受け入れることは、できなかった。
当時の私は、体中アザだらけだった。廊下を歩くだけでも、卓球のラケットで殴られた。それでも周りは見て見ぬふり、先生たちも例外ではなかった。対処しようとしてくれたのは、家庭科の先生とY先生だけだった。
なぜ、私だけ我慢しないといけないのか?
納得できなかった。けれども、Y先生の表情と声が、あまりに真直ぐだったので受け入れた。まぁ、カワイイ性格ではないので、やられっぱなしではなかった。
暴力から逃げる方法と、反撃方法を覚えた。1年間の出席日数が半分でも、いじめられっ子たちに勉強では負けなかった。ボッチにされても、気にしなくなった。
私が頭を下げてこないのが、ムカついたのだろう。結局、転校するまでイジメられ続けた。
その後も人生トラブルが波のごとく降り注いだが「相手と同じようにはなりたくない」と歯を食いしばって、別の道を歩んだ。
おかげで、人を呪う道に入らずにすんだ
担任のY先生とは転校後、中学校3年の時に1度だけあった。中学卒業を祝うために、花のブーケを持ってきてくれた。Y先生の家から何時間もかかるのに、自宅まで来てくれた。
あの日の驚きと喜び、担任だったY先生のホッとした顔を忘れる日はないだろう
”ことば”は、人を救いもするが殺しもする。私は”ことば”に救われた人間だ。だから同じように明るい道を指す”ことば”を使っていきたい。
それが、私の恩返しである。
≪2019年3月2日に続く≫
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