歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

『病院スクランブル』 第53回 見えない幸せ

 

第53回 見えない幸せ

 

2019年3月6日 神社

 

週1回はお参りする、神社についた。足はプルプルしているが、まだ歩けそうだ。鳥居の前で、頭を下げた。

 

道の左側を歩き、手水舎(ちょうずや)に向かう。ひしゃくで水をくみ、手と口を清める。ここで、大きな差がでた。

 

手が空いていると、楽ちんだ

 

これまでは、杖を持っていた。水で手を洗うときも、口をすすぐときも、片手に杖のバンドを引っかけていた。ひしゃくの柄と杖が当たって、身体がグラグラした。勢いよく杖が跳ねて、腕や足にぶつかり、アザができることもあった。

 

両手が自由に使えるとは、自分の足だけで立てるとは、なんと快適なのだろう。寝たきりになる前は、思いもしなかった感動だ。

 

”失わないと、気づかない”

 

大事なものであれば、あるほど

手の中から消えるまで、価値はわかりにくい

 

家族

友人

健康

 

失ってからでは遅いのに、手元にあるうちは大事さに気づかず、雑に扱ってしまう。”空気のような存在”とは、よく言ったものだ。目には見えず、無いことは想像できない。だが、無くなってしまえば命にかかわる。

 

私は健康を味わったことがない。いつもどこかが痛いか、苦しいか、かゆい。つらさを感じないのは、意識がない時か、麻酔が効いている時ぐらいである。体調が理由であきらめた経験は、子供の頃から腐るほどある。だからこそ、思う。「みんな、もったいないな」

 

せっかく元気な体で生まれてきたのに、食生活や考え方に暮らし方など、日々の生活で身体を傷つけている。ちょっと気をつければいいだけなのに、無茶な生活を続ける。そして30代から50代くらいで、多くの人が治らない病気にかかる。そして、これまでの生活を後悔する。命が亡くなる人だっている。

 

病気になってからでは、遅いのだ。

健康は、簡単には戻ってこない。

戻って来なくても、不思議ではない。

 

私の自力で歩く力は戻ってきた。その力が戻ってくるまでに、6年もかかった。楽とは言えない時間だったが、必要な時間だったと感じている。自分が今、持っているものの素晴らしさに、気づくことができたからだ。

 

身体は、健康じゃない。心は、トラウマだらけだ。血縁との関係も遠く、父が亡くなれば一人ぼっちだ。けれども、自由に動かせる身体がある。あきらめの悪い、心がある。困った時に助けてくれる、友人がいる。そう考えるようになったら、毎日「幸せだな」と思えるようになった。杖を使うようにならなければ、きっと幸せの意味なんて気づけなかった。

 

幸せは気づくもの

 

『幸せかどうかは、立場や環境で決まるんじゃない。自分の考え方で決まるんだ』それを、5年の寝たきり生活と1年のリハビリ期間が教えてくれた。今では、28歳で倒れたことにも感謝している。

 

だから私は、神社で祈願する時「ありがとう」から始める。もう十分幸せなので、願い事はしない。喜びへの感謝と目標の宣言が、祈願のすべてだ。それは、今日も変わらない。

 

いつも通り、神社への祈願を終えた。



 

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