歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

『病院スクランブル』他者への期待は、心には毒である

他者への期待は、心には毒である

 

2019年4月10日 自宅

 

父が去っていった。来たときと同じく、行くときも突然である。お互いに身体に気をつけようと語り合い、JR駅前で別れた。過去にいろいろ合ったが、穏やかに話せる今にホッとしている。

 

自分への期待はいい。期待通りの結果にたどりつかなくても、得るものはある。自己否定に向かわないなら、自分の可能師を信じることはプラスだ。だが他者への過ぎる期待は、心を壊す。自分か、相手か、両方か。どのパターンも人間関係の崩壊に行き着く。

 

私は他者への期待を持たない子供だった。いや、持てない子だった。お酒を飲んで転がっている。いじめを見て見ぬ振りする。自分より弱い相手でストレス発散する。そんな大人に期待するほど、バカではなかった。手助けしようとする人にも、生活がある。負担が増えれば、離れていくだろう。気遣ってくれる相手にも、期待は持てなかった。だから助けを求めるときも、相手が重荷に思わない範囲を想像してお願いした。お願いを断られた場合の対処も考えた上でだ。

 

きっと期待するのに、疲れたのだろう。期待通りにならなければ、がっかりする。「なんで助けてくれないの」と恨みたくもなる。相手が悪くないとしても、八つ当たりしたくなる。お菓子を親にねだるように、望みがかなわないからとジタバタする表情は吐き気がするほど醜かった。そんな大人とは、同じになりたくなかった。だから期待するのをやめた。

 

そして高校の時に、期待される辛さを知った。将棋が好きで参加しただけなのに、全国大会でベスト16になったことで望んでもない役目を負わされた。多くの人に肌ボロボロの弱った顔をTV放映される。高熱で意識が遠い中、スピーチをしなければならない。断る権利はなかった。当時は母が亡くなったばかりで、摂食障害でリストカットをしていた。そんな事情を表に出すわけにはいかない。隠し通したが、対人恐怖症は悪化した。

 

父は鈍感な人だ。トラブルは見ないふりする、ずるい人でもあった。修羅場で頼れないことは、わかっていた。悪い人でないが、頼れる人ではない。私の父への評価だ。子供の頃も、高校の時も何も言わなかった。そんな風に期待しなかったからこそ、父を憎まずに済んだ。父に助けてもらおうと願っていれば、裏切られたと感じていただろう。少なくとも、いっしょに映画を楽しむなんて無理だった。

 

人間がコントロールできるのは、自分の行動だけだ。行動の結果も、他者の行動も自由にはならない。コントロールできないものに望みをかけるのは、くじ引きと同じだ。しかも当たり以外は、心への罰ゲーム付きだ。そして強すぎる期待は、深海の水圧のように向けられた相手を押しつぶす。適度な期待は成長をうながすが、重すぎる期待は毒にしかならない。

 

期待は薬でもあり、毒でもある。

 

 

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