歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

『病院スクランブル』人間不信も不要じゃない

人間不信も不要じゃない

 

2019年4月12日 自宅

めったに見ない夢を見た。小学生時代の、まだ1日3食だった頃の光景だ。「戻れない幸せな世界は、目覚めた瞬間にズッシリした気持ちになる」過去を受け入れる前は、最も観たくない夢だった。今では「こんな時代もあったな」と映画のように楽しめるようになった。

 

ありのままに観るために、絶対に必要な能力がある。『疑い』だ。流されたことば、描かれたこと、映し出されたもの、そのままをすべて信じていたら事実にはたどりつけない。人間はウソをつく。意識・無意識も自分・相手も関係ない。自分の心を守るためなら、眼に写った光景を脳で捻じ曲げる。ウソをホントと信じこみ、他人も巻き込む。無自覚の場合、見抜くのはとても難しい。

 

母はよく人に騙された。いや、わかっていて騙されていた。勘は鋭い人だったので、相手の悪意には気づいていた。だが、裏切りに耐える心がなかった。そして困っている人を放っておけないお人好しだった。だから無自覚に鈍い人を演じきって騙されていた。けれども、無意識は誤魔化せない。お酒が入って意識が暗闇に引っ込むと、泣いて暴れた。

 

そんな母と暮らして、つくづく思った。表情も、立場も、血縁だって関係ない。経歴は作れる。言葉も取り繕える。だから直感が示す第一印象をコンパスに、相手の行動を観察しよう。小学校を卒業時には、人間不信のバリアが完成していた。

 

その後、多くの人とのご縁で人間不信は解けていった。それでも人間不信だった時代を後悔はしていない。トラブルを乗り切り、今生きているのは『疑い』の気持ちで観察を続けたからだ。残念ながら、世の中は信用していい人ばかりではない。どん底中や、昇り調子中は特に危ない。「引きずり落とそう」「おこぼれをもらおう」「踏みつけにしよう」悪意いっぱいの存在が寄ってくる。笑顔と立派な肩書きを携えて、甘い言葉を語りだす。どこ切っても同じな金太郎飴のごとく、手口がワンパターンである。

 

信頼で結ばれた関係は素晴らしい。より良い未来があると信じるのは必要だ。しかし、信じるだけでは片輪しかない自転車である。最悪の展開を予測する『疑い』の車輪もないと転んでしまう。お金がからむ関係なら、最大限の用心は義務に近い。

 

できあがった料理も食品サンプルも、遠目には同じにみえる。

 

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