歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【病院スクランブル】名前は記号に過ぎない

名前は記号に過ぎない

 

2019年5月12日 自宅

 

書類にハンコを押す。ハンコはいくつも持っている。暗証番号やパスワードを複数使い分けるように、ハンコも使い分けている。一度、母方の名前に変わったので、結婚もしていないのに旧姓がある。確認ミスで読みがなを、国も両親も間違えていたので年金手帳すら訂正アトがある。手続きは、どちらも二度としたくないほど面倒だった。

 

名前というのは特別なものだ。読み間違えで、不機嫌になる人は少なくない。けれども、こだわり過ぎるとイライラが増えるだけである。周囲に面倒な人と知れ渡るおまけつきだ。

 

私は名字が3回、変わっている。小学生から中学生にかけて、慣れていない名字で3年ほど呼ばれた後、元の姓である父の名字に戻った。それでも、旧姓で呼びかけられた。10年以上信じていた、名字の読みが間違いだった。”ウエダ”と”ウエタ”の違いなのに、役所と銀行などをたらい回しされた。そしてて訂正から20年近くたっても、”ウエダ”とよく言い間違えられる。これだけコロコロ変わると、気にするのがバカらしくなる。最近は「好きなように読んでね」だ。だいたい、”ウエタ”より”ウエダ”の方が発音しやすい。大した違いじゃない、データ管理の視点だと大問題だが。

 

だいたい名前は重複する。よっぽどキラキラネームじゃない限り、誰かとかぶる。そんな似た者同士を気にするよりも、自分自身を覚えてもらった方が忘れられにくい。顔と性格が両方そっくりパターンは、ほとんどない。「また会いたいな」と思ってもらえるたら、名前も自動で認識される。覚えてもらえたとしても、「名前の読みにうるさい人」なんて記憶のされ方は御免こうむる。

 

性は人生によるが、名は一生モノだ。「こんな名前は嫌だ」と裁判でも起こさない限り、死ぬまでいっしょである。大事に思うのは当然である。しかし、それは自分にとってはだ。他人にとっては、多くの識別記号のひとつでしかない。『名より実をとれ』という言葉が示すように、大事なのは中身だ。むしろ名が輝くかどうかは、実にかかっている。変なこだわりは名を下げるだけである。「名前に異常にこだわる~さんがいてね」なんて形で有名になっても、目立つ以外のプラス点がほぼない。これは個人も、組織も同じ法則だ。名を上げるか、下げるかは自分の言動で決まっている。名前を間違えられたくないなら、中身を磨くのが近道だ。

 

ジャン・レノとジョン・レノンを

間違える人は少ない。

 

<<2019年5月13日に続く>>

 

 

ジョン・レノン 音楽と思想を語る 精選インタビュー1964-1980

ジョン・レノン 音楽と思想を語る 精選インタビュー1964-1980

 

 

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