それって、誰向け?
2019年7月1日 電車
『届かないだろうな』
座席に座れたので、いつも通り本を読む。立っている場合はスマホで電子書籍を読む。どちらにしても、1分あれば何かを読む。どこに行っても納得される活字中毒だ。それだけ文章を読んでいると前書きと後書き、目次を読めば8割の本は作家の意図が察せられる。
「どんな人か?」
「何を伝えたいか?」
「何を狙っているか?」
この3点がわかれば、対象とする読者イメージが誰かもわかる。それなのに、本文の内容と作者のイメージした読者がズレていることがある。気づくたびに味のボケた料理を食べたときのような気分になる。そういう本を再読することはない、学ぶべき点があっても。
「現場を知らない」
「今を知らない」
「現実を知らない」
的外れになる原因はこの3つで説明がつく。
「視力0.001人が裸眼で見るような目で
世の中を観ているのですね」
思わずこんなセリフを言いたくなるほど、自分のみている世界がすべてだと思いこんでいる人はいる。当然、言うことやること全てのピントがズレている。そんな残念な人には近寄らない。たいてい頑固なので、人の意見を受け入れることはない。受け入れる人なら、世間ずれがメシマズでランキングで優勝するレベルの酷さにはならない。傍にいても疲れるだけなので、全力で逃げる。
思い込みの激しい人に出会うたび、自分もズレ過ぎてはいないかと自己反省する。世の中をまったくの思い込みなく観ることはできない。人間は自分の思考というレンズを通している。視力1.0の人が裸眼で見る視界にはならない。けれども、限りなく近づけることは出来る。そう信じて日々、微調整をしている。なぜか?
伝える能力が下がる。
言葉、画像、音楽、どんなモノであっても現実からズレ過ぎたものは伝わらない。例えばピカソの絵は突拍子もない。だが、絵に込められているものはピカソがつかんだ本質に近い、現実の姿だ。表現方法が個性的なだけで、限りなく現実を写し出している。だからこそ、世界中の人に求められている。
「どうして伝わらないんだ?」
前提が間違っている。まず、自分の表現が100%相手に伝わることはない。自分以外は宇宙人のようなもので遺伝子も経験も思考も違う。見た目が似ているから錯覚しがちだが、完璧に理解し合えることはない。出来ることは少しでもパーセンテージを上げることだけだ。伝わらないのが当たり前である。「わかりあえたら奇跡」ぐらいのスタンスの方が精神衛生上とても優しい。少なくとも「理解されない」と余計なストレスを貯めることは減る。
お互いをパーフェクトに理解は出来ない。それを基準に「どうすれば伝達率が上がるだろう?」と考える。考えた案を実行、微調整して再び実行、これの繰り返しだ。『コミュニケーションは伝言ゲーム』、伝えた先から意味がズレていく。この原則はどれだけ技術が進歩しても変わらない。もし思考したことをそのまま映像化できる装置が開発されたとしても、受け取り方は人それぞれなのでズレるのは変わらない。技術にも変えられないものは存在する。
自分自身ですら完璧には理解できない。
それなのに、他人の全てを理解できるはずはない。
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