歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【歩くリトマス試験紙の反応記録】感謝は目の前にある

感謝は目の前にある

 

2019年7月21日 会議室

 

「あんたらは一度でも

 ”水”に感謝をしたことはあるか」

 

はい、とは答えられなかった。

 

禅について学ぶ講義の日、今回が最後だ。周りも、先生も気合いが入っている。メインテーマはものの見方と感謝についてだった。表題にはそんなことは一言も書いていなかったが、そうとしか思えなかった。その中で”水”についての話があった。

 

水は多くの働きをしてくれている。

身体中に栄養を運んでくれる。

汚れをかき集めて、体の外へ出してくれる。

人は水がなければ生きられない。

 

「そんな大切な水に感謝をしたことはあるか?」

 

そういう考えが浮かんだことすらない。当たり前はないと感じていたのに、触れない日がない”水”のすごさに気づいていなかった。自分の底の浅さに恥ずかしくなった。

 

その瞬間、人についても思い至った。

いつも助けてくれる、身近な人への感謝が足りなかったな、と。

 

たまに会う人や見知らぬ人にはきちんと挨拶するのに、家族にはぞんざいな人がいる。週イチの趣味の集まりには手土産を持っていくのに、家にはひとつも買って帰らない。誕生日の時にあればいい方、そんな話は何度も聞いた。私は出かけたら何かお土産を買う。挨拶も朝昼晩、「いってきます」「ただいま」「ありがとう」「ごめんなさい」も言う。だが、他で知り合う人たち以上に大事にしていた、とは自信を持っては言えない。反省だ。

 

家族や親友を”空気のような存在”と例えることがある。うまい表現だ。その存在の重要さと感謝を忘れやすい性質を見事に表している。水と同じく、空気もなくなると生きてはいけない。それなのに、失いそうになるまでは大事さに気づかない。無くしてしまえば、二度と同じ形で戻ってくることはないのに。

 

周りへの感謝が足りないことを気づかせてもらえた。この講義に参加できてよかった。教えてくれた知人と、禅の先生には感謝の言葉しかない。「ありがとうございます」この気持ちを忘れないよう、スケジュール帳に書き留めた。面倒くさがりの私でも、忘れたくないことは紙に書く。例外は常に存在するものだ。

 

感謝は目には見えない。

だが、その影響はとても大きい。

感謝する相手に、ではなく感謝する本人に。

 

日本のこころの教育

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