映画『Diner』に基準の難しさをみる
2019年7月19日 映画館
久しぶりに邦画をみた。暗殺者が集うレストランが舞台の映画『Diner』、予想以上に面白かった。特に主人公である一般女性の常識と暗殺者の思考がぶつかり起こる悲劇、善意の行為が不幸に導く。そんな人間関係の複雑さに引き込まれた。そして、思う。藤原竜也さんの狂人役に外れはないな、と。
自分の常識は他者の非常識だ。似たような場所で生活をしていても、思考は驚くほど違う。「きっと、わかってくれるだろう」という考えの行動が起こすトラブルは、数え上げれば切りがない。確認不足と説明不足は諍いの種だ。
「空腹のままでも寝られるけど」
「また不幸自慢か」
こういう返事がきて驚いたことがある。私にとって、空腹は健康の証だ。体調が悪いとお腹は空かない。さらに言えば、絶食が続くと意識がぼやけるので何も感じなくなる。空腹があるうちは、まだ危機的状況ではない。これが私の認識だ。けれども、話し相手にとって、空腹はツラいものだったらしい。ただでさえ空腹で苦しいのに、それを我慢して寝るなんて拷問のように感じたようだ。空腹、たった二文字の言葉でさえ受ける印象が人それぞれ違う。相互理解の難しさを学ぶ出来事だった。
『他国では常識が違う』よく言われる話だが、常識が違うのは他国だけではない。同じ地域に住んでいる人同士でも違う。家族でも一致はしない。例え同年齢、同地域、同性別でもまったく同じ思考にはならない。交流には誤解がつきもの、この前提でコミュニケーションをとらないとトラブルに発展する。「わかったつもり」「伝えたつもり」は例え相手が暗殺者でなくても悲劇への近道だ。
ありがた迷惑はリサーチ不足の証明だ。
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