善意と悪意に差はない
2019年8月8日 自宅
久しぶりにアレルギーの症状がでた。今回は皮膚にブツブツが出るじんましんだ。蚊に1ヶ所を噛まれた程度のかゆみなので大したことはない。それに、今は肌が荒れていても露骨に嫌な顔をする人は少なくなった。多くの人に知られることで日々の生活で困ることが減った。小学生の頃の自分からしたら夢のような話だ。情報社会バンザイ。
「あなたのために」という善意が、毎回いい結果を生むとは限らない。逆に相手を困らせるためにした行動で、喜ばれることもある。なかなか予想通りにならないのが世の中だ。
小学生の時の話だ。私は酷いアレルギーで食べてはいけない食品がたくさんあった。だが、当時はアレルギーを知らない人が多く、しかも残さず食べるのが当たり前の時代だった。
ある日、給食でヨーグルトを使ったデザートがでた。大人になった今でも、体調が悪い時に食べるとアレルギー症状が出る。それほど、食べてはいけないものだった。しかし、当時の担任には理解されず無理やりに近い形で食べるハメになった。結果はじんましんが身体中に出る。高熱は下がらない。そんな目にあったのに、担任に謝られた記憶がない。
担任にとっては「残さず食べる人に育てよう」という善意だったのだろう。だが、その結果は学校や大人への不信感が高まっただけだ。学校以外でも似たような目に何度もあった。
私は学んだ。「自分の知っている世界がすべてだと思いこんでいる人は、悪意を持って近づく人よりも危険だ」と。なぜなら、彼らは反省しないからだ。「知らなかった」「身体が弱い子が悪い」「面倒な子に当たるなんて、自分はなんと運が悪いんだろう」、言い訳に責任逃れ、逆ギレのオンパレードだった。
究極のところ、善意だろうと悪意だろうと行動の結果は何も変わらない。例えば私のようにアレルギー症状が出るモノを押しつければ、「相手が苦しめばいい」と思って渡しても、「これを食べれば健康になる」と思って渡しても、アレルギーの人が苦しむという結果は1ミリも動かない。被害を受けた側からすれば、どちらも悪意の塊にしかみえない。
善意の気持ちは使い方を誤れば恐ろしい凶器にもなる。その凶器は相手でなく、自分すらも傷つける。「あなたのために」を言い訳にするのが癖になれば、反省をまったくしない自分の正義だけが大事な人間になってしまう。そんな人の側にいたい人がいるだろうか。自分のする行動が、相手にとって喜ばしい行動かどうか。一歩下がって考えるような、広い視野で考える想像力を身につけたいものだ。善意か悪意かの判断をするのは、自分ではなく相手の権利である。
歴史上、残虐な行為は善意の名のもとに行われている。
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