歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【歩くリトマス試験紙の反応記録】我慢はときに自らを傷つける

我慢はときに自らを傷つける

 

2019年8月20日 病院

 

「そんなに痛みが強いとは思わなかった」

 

通院して5ヶ月目の病院で主治医に驚かれた。私の笑顔の仮面が分厚すぎたらしい。普通の人ならギクシャクと壊れたロボットのようにしか動けない。そんな動くたびに痛みが走る身体なのに、健康な人のようにサクサク動き表情に変化もない。だから、体の痛みが強くないと勘違いされていた。私の強がりは医師の目も欺けるのか。その後、最も付き合いが長い医師に「気づいてもらえました」と報告したら苦笑いされた。もしや先生も騙されてたときがあった?

 

我慢は生きる上で必要な能力だ。まったく我慢なしに過ごすことは、どんな権力者でもできない。だが、我慢もほどほどにしないと損害を被る。

 

私は生まれたときから健康を知らない。苦痛ゼロなときは一度もない。そのうえ成人するまで人生トラブルの大嵐だった。私にとって我慢は日常でしかない。おまけにトラブルを円滑に解決するために表情を取り繕う。こんな技術は小学校入学前に修得済みだ。

 

そんな生き物なので感情の隠蔽は得意技だ。これに我慢強さが加わる。そして厄介なことに我慢の基準が人からズレている。結果、入院寸前まで体調を悪化させて医師に笑ってない微笑みで説教される。「もっと早く来なさい」、「救急車を呼びなさい」、もはや聞き飽きるほど言われている。家族や周囲の人にも「もっと早く言え」、「しんどさを表に出せ」、「無茶するな」と怒られる。

 

だが、待ってほしい。普通の人が救急車を呼ぶレベルだと、私は週イチペースで呼ぶハメになる。痛い、しんどいで寝ていたらまた寝たきりに逆戻りである。だいたい、ジッと苦痛をただ我慢するのはストレスがたまる。ほどよい我慢の基準が知りたい。身体の耐久度がゲームのようにグラフで表示できればいいのに。

 

我慢は水のようなものだ。我慢ができなければ、日々の生活にも困りだす。だが、過ぎる我慢は心身を壊す。人間はどれほどツライことでも慣れてしまう。最初はキツイと感じていた我慢であっても、長く続けば感覚が麻痺してくる。ブラック企業、いじめ、虐待など、致命的な出来事につながるほど酷くても当たり前と思いだす。

 

慣れというのは本来、自分を守るためにある。例えば私の場合、身体のツラさは慣れっこだ。健康な人なら起き上がれないような高熱でも、絶対安静を言い渡されるような激痛でも、1時間で救急車を呼ばなければいけないようなぜんそくの発作がでても、笑顔を簡単につくれる。この程度の苦痛は柱に足をぶつけたレベルでしかない。そう思えるほど体の異常に慣れているからこそ、心が壊れずに済んでいる。

 

我慢から逃げることはできない。だが、我慢にも限度はある。「慣れているから大丈夫」では済まない。どれほど小さなことでも、我慢は自分を抑えることだ。限度を超えてしまえば、心や身体を治せないほど破壊する。取り返しがつかなくなる前に、過ぎる我慢をしなければいけない生活を変える。どれほど大変であっても、我慢を続けるよりはよっぽどいい。

 

我慢は自分のためにするものだ。

 

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