悲劇には美しさがいる
2019年9月10日 自宅
私はハッピーエンドが好きだ。だが、無性にバッドエンドを読みたくなることがある。別に悲劇を味わいたいわけじゃない。面白いと感じた話がたまたま悲劇的な結末だっただけだ。ガラス細工のように美しくも儚い世界に引き込まれてしまう。作者の文章力にただひれ伏す。そんな読書タイムだ。
悲劇は難しい。ハッピーエンドをほとんどの読者は望んでいる。それを裏切った場所に着地するのだ。よっぽど説得力がないと酷評されてしまう。登場人物、テーマ、描写力、すべてが高い水準でないと再び読まれることはない。
「死の悲しみを描きたい」
「災害のひどさを伝えたい」
「戦争の愚かさを訴えたい」
こういう悲劇を描くための作品は失敗作が多い。物語はニュースやノンフィクションとは違うものだ。読者に届けたいものが悲惨さではテーマが浅すぎる。もし悲惨さをテーマにするならば、「どんな場面の悲惨さを描くか?」と深堀りしないと共感がされにくい。
だいたい、悲劇というのは当たり前だ。親しい人が死んで悲しい。災害や戦争で絶望する。どこにも意外性がない。すべてが読者の予想通りな作品は面白くない。エンディングに意外性がないならば他で作る。
登場人物の隠された過去
幸せからの転落
伏線の回収
たとえば、先日読んだ『暗夜行路』は登場人物の生い立ちが予想外だった。なんのギャップもない悲劇で名作は存在しない。
もうひとつ、重要なポイントがある。悲劇は読後感が悪い。どうしても読んだ人のテンションは下がる。だからこそ、別のところで心を持ち上げる必要がある。
美しさ
ドログチャの悲劇が許されるのは昼ドラぐらいだ。バッドエンドで落ち込んだ心を癒せるほどに、人の心や景色の描写で美しさを表さないとバランスが悪い。言葉の使い方も含めて文章力が最も試されるのは悲劇だ。素晴らしい作品を読むたびに感じる。
おそらく悲劇を描けるようになれば、文章力は格段に上がるだろう。何度か挑戦はしているが、いつもハッピーエンドに持ち込んでしまう。自分の性格が邪魔をするとは無念だ。これもひとつの悲劇と言えるかもしれない。他者から見れば喜劇だったとしても。
悲しみは共感されやすいが
バッドエンドは否定されやすい。
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