立場が変われば、正しさも変わる
2019年9月24日 自宅
気力が枯渇寸前だ。どうも疲れ切っているらしい。こういう日は読書の世界に飛び込む。今日、選んだのは歴史物だ。時代物やファンタジーなどの小説も論文に限りなく近い、歴史検証物も好きだ。
幼稚園の時に読んだ伝記『湯川秀樹』と学習マンガ『日本の歴史』『中国の歴史』、そして星座図鑑で知ったギリシャ神話が歴史物への入り口だった。今まで一番繰り返し読んだのは隆慶一郎氏の『影武者徳川家康』、徹底的な取材を土台とした義理人情と権力者への皮肉がたまらなく面白かった。
歴史に触れるたび、つくづく感じる。
絶対の正義なんてないんだな、と。
例えば、日常生活では人殺しは責められる。だが、戦場では殺さない人が責められる。場合によっては命令違反で命を奪われる。置かれた状況が変わるだけで、正しさは入れ替わる。
戦の英雄は、相手にとっては怨敵だ。
これは血が流れなくても変わらない。権力争いで有望な部下は、相手にとって目障りな存在だ。自分が落ちぶれる原因であれば、世間の評価が高い人格者であっても憎む相手になる。
『正義の反対は、別の正義』
この言葉は、歴史を様々な視点からみようとした人には事実でしかない。
ある人がいた。その人は体内に人類を死滅させるウイルスを持っていた。たった1人を殺すだけで人類が救われる。この人を殺すことは正しいか?
答えが出るはずもない。
この人を大切に思う人にとっては正しくない。人類の種を守るためには正しい。のちに殺すことでウイルスが突然変異、より凶悪になれば「人類を守る」という大義名分を失う。正しさが一瞬で入れ替わる。突然変異しなくても「もし自分が同じ立場になったとしたら?」という不安は残る。その不安が爆発したらどうなるか? 「殺さずに隔離するのが、最良の選択だった」と考える人が出てくる。
もし現実に起こったら、情報が隠蔽される可能性が最も高いだろう。すべての情報を公開するよりは混乱が少ない。ただし、隠蔽がバレてしまえばとんでもない混乱を呼ぶ。
こういう思考実験をすると、世間一般の正しさに意味がないことがわかる。「嘘を言ってはいけない」「情報はわかりやすく伝える」「隠し事はよくない」、よく良識と言われるセリフも状況によると思わざるを得ない。
正しさというのは魅力的な言葉だ。どれだけ非難されても、「自分は正しいことをした」と自らの心や立場を守れる。しかし、実際は支えにはなれない。立場や状況の違いで消えてしまう儚い言葉だ。拠り所にするにはあまりに頼りない。正しさを振りかざす人は、壊れやすい人である。
正しさは幻のようなものだ。
見ることはできても、触れることはできない。
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