締め切りの威力を思い知った日
2019年10月19日 会議室
「貸してあげるよ」
差し出された手が輝いてみえた。
1泊2日で禅の勉強会、今日はその1日目だ。早めに乗り込み、一番前の席に座る。どこぞの社長さんやお医者さんもいるが知らぬ。私は目が悪いのだ。前の席は避けられがちなので、私が確保しても苦情はでない。ホワイトボードが見えやすい位置を確保した。
開始30分前になった。隣の席の人の机に1冊の本がある。女性2人がわきゃわきゃと語り合っている。
「本を譲ってくれてありがとう」
「いいのよ。同じ本を数冊持っていたから」
チラッと置いてある本をチェックする。タイトルが禅の勉強会の副題と同じじゃないか。これまで参加した中で、出版社の人が持ってきた書籍の中にこの本は含まれていない。ピンッと活字中毒の勘が働いた。この本は絶版だ。入手困難で、おそらく値段も安くないだろう。
読みたい。
1人が席を立ったタイミングで話しかけた。運がいいことに雑談をしたことが2度ほどある。本を借りるなら今だ。
「そちらの本、面白そうですね」
「ちょっと読ませていただけませんか?」
「いいですよ」
快く貸していただけた。すかさず時計を確認する。開始まで20分しかない。急いで中身に目を通す。ふむふむ、これは何度も読み返したいほど良い本だ。前書きと目次と第一章を読めば、本の質は察せられる。目次で特に気になったところを読み、名残惜しいが勉強会の開始5分前に感謝と共にお返しした。
勉強会の1日目が終了した。前日まで熱があり、今日は雨が降っている。それでも来てよかった。まさか禅の講義で、万葉集や源氏物語に徒然草の知識まで深まるとは思わなかった。文化と歴史はつながっていると、しみじみ実感するひとときだった。そして、ある思いがさらに高まった。
あの本を完読したい。
今日の内容は、偶然にも開始前に本で読んだ部分がでた。なんとなく、明日のテーマが予想できた。すごく気になる。ご飯をお預けされているワンコの気分だ。予習のためにも読みたい。とても厚かましいが、頼んでみることにした。
「今日中にお返ししますので、本を貸していただけませんか?」
「そんな焦らなくてもいいよ。はい」
その女性の笑顔が仏様にみえた。連絡先も知らない相手に大事な本を貸してくれる。なんていい人なんだ。深く頭を下げて、両手で本を受け取った。
焦らなくていい、と言われたが甘える気はない。これから食事会がある。その後の空き時間を計算する。食事会後の飲み会にも参加すると話していた。ということは、寝る時間は遅いはずだ。23時ぐらいまでは大丈夫だろう。食事会を早めに退出すると20時、読書に使える時間は3時間だ。
借りた本は単行本だ。ページ数は366ページある。自分が詳しい分野ではない。通常ならば、4時間近くかかる。だが、先にパラパラ読みしたというイニシアティブがある。
イケる。
食事会をそわそわしながら過ごす。こんな時に限って、予定の進行が滞っている。借りた本が待っている部屋に戻れたのは20時10分だった。ぐずぐずしている暇はない。片付けもそこそこに本を開く。この部屋は3人部屋だ。おまけに一人は眠そうだ。壁際の小さなランプのそばにうずくまり読書にふける。
本の世界に飛び込んでしまえば、時間は気にならない。ただ終着点まで突き進むだけだ。ひたすら文章を読み続けた。
読み終わった。
勇気を振り絞って、お願いをして良かった。これは出会うべき本だった。いかん、感動している場合じゃない。時計を確認する。
22:30
まさかの3時間切り、最速記録だ。飲み会の会場に本を返しに向かう。
「もう、部屋に戻ったよ」
残念、少し遅かったようだ。こんな時間に部屋へ押しかけるのは気が咎める。明日、感謝と謝罪をそえて返却することにしよう。ちなみに、食事会後に手に持っている本を読破したと周りにばれた。「こいつ何者だ」と異星人を見る目で観察された。ただ、読書欲のままに突っ走っただけなのに理不尽である。
詳しい話を聞いて納得した。この本を読了済みの人が何人もいたらしい。何日もかけて読む本を、1日足らずで読んだ生き物が出現したので驚かれたようだ。読了済みの方たちと本の感想について1時間ほど語り合った。
部屋に戻って、シャワーを浴びる。
ある思いが頭を占めていた。
「人間の底力はすごい」
締め切りがすぐそばに迫っていると、いつもの何倍の力が出る。”火事場の馬鹿力”なんて言い方をする。何度か体験しているが、本の読む速度がここまで早かったのは初めてだ。能力の使い過ぎで頭がくらくらしている。ひんぱんに使うには負担が大きすぎる。けれども、ひとつ壁を乗り越えた感覚がある。たまには、締め切りに追われるのも悪いものじゃないな。そう、思えた。
明日の予習はバッチリだ。
心地よい達成感とともに、眠りについた。
能力の限界は、自分自身にもわからない。
追い詰められて、やっと天井がみえる。
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