モノの見方ですべてが変わる
2019年10月20日 会議室
「そうだよ」
講師の先生が微笑んだ。
昨日、借りた本を返す。3時間で返す予定が14時間後になってしまった。深く頭を下げる。
「遅くなって申し訳ありません」
「茶道の部分がとても印象深かったです」
「貴重な本を貸していただき、ありがとうございます」
「あの言葉は胸にしみるよね」
「喜んでもらえて良かったわ」
笑顔で差し出した本を受け取ってくれた。ほーっと力が抜けた。暗くみえていた世界が、急にきらめくほど輝いてみえた。返すのが遅くなったのに、なんていい人だ。もう一度、謝罪と感謝を伝え席に戻った。
今日は禅の勉強会の二日目、最終日だ。申し込んで初めて知ったのだが、泊りがけの講義は今回が最後らしい。講師の先生も、参加している人も意気込みが違う。もちろん、私も真剣だ。私にとっては、最初で最後の機会だ。何ひとつ聞き逃したくはない。紙に要点を走り書きしながら、耳に意識を集中させた。
休憩の時間になった。昨日、本を借りて良かった。予想通り、借りた本と本日の講演内容はつながっていた。前もって読んでいたおかげで、少しは理解できた気がする。今日のテーマを一言で表すならば、これだ。
”観自在”
般若心経の中でも大切に扱われている。仏教の軸となる考えのひとつだ。『モノの見方ですべてが変わる』とでも言うべきか。言葉で語るのは簡単だが、実行するのは難しい。
「病気になった」
「財布の中にお金が無い」
「疲れやすくなった」
事実だけを受け取れる人が、どれだけいるだろうか?
ほとんどの人は不満を感じるだろう。
「病気になったことで多くを学んだ」とポジティブな面だけをとらえることじゃない。「病気になって、体がしんどい」とネガティブな面だけをとらえるのでもない。「病気になった」という事実だけを、まず受け入れる。そのうえで、『多くを学んだ』というプラス面に意識を向ける。それが、私の理解した観自在だ。
観自在の話を聞いて、自分のある体験に思い至った。
私は記憶障害だ。中学生時代の中心に記憶が抜けている。記憶障害になった理由は、心が壊れそうだったからだ。心を守るために人格が分裂、新しく生まれた人格が元の人格を守るために、生きるのに邪魔な記憶を隠した。おかげで記憶障害になったきっかけの出来事すら、私は何ひとつ覚えていない。
『記憶障害になった』、これを喜ばしいとは言えない。記憶障害になるほど追い詰められた体験も喜べない。けれども、もし記憶障害になっていなかったら? きっと心が壊れて廃人か、命はなかっただろう。私は記憶が隠されたからこそ、今もヘラヘラ生きていられる。
「だから、私は記憶障害に感謝しています」
「これが私の観自在です」
休憩時間に手短に話をまとめて、講師の先生に伝えた。講師の先生は「そうだよ、それが観自在だよ」と返してくれた。春のおとずれを告げる穏やかな日差しのような笑顔と共に。
この応えをいただけただけでも、参加した意味があった。
そう思える時間だった。
人生はトラブルなしとはいかない。困難をすべて避けて通ることなど不可能だ。けれどもトラブルをどう受け止め、どう行動するかは選べる。”観自在”という事実のとらえ方は、苦しい時こそ生きる助けになってくれる。モノの見方が変われば、みえる世界が変わる。たとえ事実が1ミリも変わらなくても。
事実は変えられないが、
どう受け入れるかは変えられる。
天国を選ぶも、地獄を選ぶも、
自分の考え方ひとつだ。
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