モノの見方には難易度がある
2019年10月25日 自宅
「あそこの家は、いつもそうだ」
また友人が文句を言っている。昔から付き合いのあるご家庭が、腹の立つことばかりするので我慢ならないらしい。私に言われても困る。だって、会ったことすらないのだから。そんな本音を口に出したら、たき火にガソリンをかけるようなものだ。適当に相づちを打ちながら、スマホで読書を楽しんだ。学生の時から聞いているフリは得意技である。
『モノの見方を変える』
何か良いことを言っているイメージがある。具体的なことは何も伝えてないのに。近年、視点を変える大切さを訴える書籍がたくさん出版された影響だろう。私は危ないと感じている。
何でも悪くとらえる。
悲観論、陰謀論なんて言い方をよくされる。ひたすら物事の悪い面ばかりをみつめるモノの見方だ。確かに、情報は疑うものだ。だが、すべて最悪の展開ばかりを想像するのは行き過ぎだ。モノの見方は明るい方にも、暗い方にも変えられる。そう、なんでも不運な出来事だと受け止められる。
すべて不運な出来事だ。
文字にすると馬鹿らしいが、実行するのはとてもたやすい。なぜならば、無責任でいられるからだ。例えば、試験に落ちたとする。「努力が足りなかった」なら自分の責任だが、「寒くて頭が回らなかった」「問題が難しすぎた」「隣の人がうるさかった」なんて言い訳を考えれば、いくらでも自分以外の責任にできる。ひとつも、自分が悪くないと言い切れる。これほど、楽なことはない。
実際に、不運は世の中にいくらでもある。本人はひとつも悪くないのに理不尽な立場に立たされる。世間で問題になった、医学部試験の合格基準なんていい例だ。
だが、『常に自分は悪くない』思考はあまりに危険だ。この思考に染まってしまえば、成長は止まってしまう。自分が常に正しいならば、他人の意見を聞く必要も努力する必要もなくなる。
例えば、相手がこちらの提案を受け入れてくれないとする。
これは、相手が悪いのだろうか?
「相手の意見をきちんと理解しているか?」
「相手にわかりやすく説明できたか?」
「こちらが無理な要求をしていないか?」
相手が身勝手すぎたり、理解力が低すぎる。そういう場合もあるだろう。けれども、自分にも反省すべき点がないか見直すぐらいはできる。相手を責めている限り、いつまでたっても状況は変わらない。
モノの見方には難易度がある。「あのホメ言葉は機嫌取りでしょう」「あのお説教は私を育てるために、憎まれてまで言ってくれたんだ」、どちらが考えやすいだろうか? 暗い面を探すよりも、明るい面を探す方がとてつもなく難しい。ありのままにみようとするよりは簡単だが。
元々、人間の脳は自分に都合のいい考えを受け入れるようにできている。よっぽど意識してモノの見方を変えようとしない限り、『自分は悪くない』思考にとらわれる。人間の本能は省エネ思考だ。心身の負担が最小限になるようプログラミングされている。
健康のために運動するよりも、だらだら過ごしたくなる。そして、戻った体重をみて「太りやすい体質だから」と自分を慰める。運動で体力を消費することも、意志の弱さを責めることで心にダメージを負うこともない。私の実体験だ。
自分にとって楽なモノの見方をしている限り、現実は変わらない。状況を変えたければ、どれほど難しくても明るい面に目を向ける。ただし、楽観的とは違うので注意したい。モノの見方で事実は変わらない。ダメなものは、やっぱりダメだ。
暗闇をみるのは、肉眼でいい。
太陽をみるには、サングラスがいる。
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