明日が来る保証があるのか?
2019年11月30日 自宅
「もったいないな」
よく、抱えてしまう感想だ。
うらやましさが混ざっている。
それは否定できない。
今日も元気にベッド生活中だ。微熱までは下がった。だが、ちょっと作業をするだけで瞬間湯沸かし器のようにガンガン熱が上がる。顔がすぐに赤くなるので、家族の目をごまかせない。お布団のあったかさが胸にしみる日々だ。
しかも、昨日の読書がばれた。
たった1時間程度なのに、怒られた。
いや、確かに私が悪い。
けど、そこまで怒らなくても。
家族の怒りのボルテージが危険水域だ。これ以上、怒らせると食卓がヤバい。食の楽しみを奪われるのは悲劇でしかない。だから、今日は読書をせずに横になっている。こういう時に強い味方はタブレットだ。ネット小説がいくらでも読める。
「その行為は、読書と何が違うのか?」
実は、ネット小説は書籍版より読みやすい。クリック1発で読むのを止められるので、筆者が読みやすさに全力をかけている激戦区だ。おかげで、体力のない私に最適の対象となっている。だいたい、活字中毒が文章を読まなかったらストレスが大爆発する。これは、家族も承知だ。あきらめ顔で許してくれている。モンダイハナイ。
自由に動けない私にとって、物語の世界は旅行のようなものだ。身体の痛みや思うように動けない状況を忘れさせてくれる、大切な時間だ。
だからこそ、いつも感じてしまう。
自由に動ける身体があるのに、
なぜ、あんなに不満だらけなのだろうか?
いや、頭ではわかっている。
心や体の辛さは絶対値だ。
私なら気にするほどでもない痛みでも、人によっては眠れないほどの激痛だ。それほど、苦しみの感じ方には個人差がある。比べられるものじゃないと、ちゃんと気づいている。
そして、私は優しい人たちに囲まれている。食べるものがなく、常に神経を張り積ませて隠れている。そんな昔とは逆で、一日三回のご飯を食べられて、何の不安もなく眠ることができる。私は幸福だ。
それでも、感じてしまう。
少しのうらやましさと
「もったいないな」という想いを。
おそらく多くの人は、明日も同じような日が続くと信じているのだろう。これは、きわめて自然な考え方だ。明日が来ないかも、なんて常に感じていたら心が持たない。不安と恐怖で心が踏みつぶされてしまう。心の健康のためには、明日は必ずくると信じている方がいい。
けれども、
明日が来る保証はどこにもない。
日常はとても繊細だ。
ほんの少しのズレで崩れ去る。
別に世界レベルの騒動が原因とは限らない。人は、とてもあっけなく死ぬ。私のように何度も死の淵に立った人間が、39歳まで生きている。それのに、何の病気も持っていなかったクラスメイトは19歳で亡くなっている。バイクの事故だった。
隕石に当たって死亡
床の水たまりに滑って死亡
草1本で死亡
とても簡単に、命は尽きる。病気とか、年齢とか、参考にしかならない。私のように死亡する確率が高くても、細々と命がつながることもある。数万人単位なら、確率も意味がある。だが、個人レベルでは予測不可能、それが生死の定めだ。
明日が来る保証は誰にもできない。だからこそ、今ある時間を大切にしてほしいと思う。おせっかいだと、知ってはいるが。
当たり前を疑わずに来れた人生は幸せだ。
絶望に落ちたことがない証拠だ。
されど、これから先も幸福である確率は低い。
当たり前を大事にできないのだから。
自己紹介でもある記事
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