陰口は美しくない
2019年12月9日 喫茶店
喫茶店でコーヒーを飲んでいると、
2つ先の席から大声が聞こえた。
ある人について、3人で語り合っている。
ほめ言葉はひとつもない。
フォローの言葉すらない。
私は注意を逸らした。
誰かについて語るとき、心がけていることがある。本人がいる場所では言えない、そういう発言はしないと決めている。これを守るだけで、悪口のトラブルに巻き込まれなくなる。対面でも、インターネットでも、この方針は変わらない。
なぜ、こんな方針になったか?
陰口で人生をダメにした人を、たくさん目撃したからだ。
不思議なもので、陰口ほど本人の耳に入りやすいものはない。ここだけの話、この言葉の拡散する力はすごい。拡散してください、なんて頼むよりも10倍は効果的だ。あなただけ、この言葉を欲しがる人はとても多い。そして、ささやかれた人も使いたがる。
うわさの対象には、必ず何を言われているかは届く。人望のある、なしは関係ない。人望があれば、心配の声と共に内容が届く。人望がなければ、嫌みと共に内容が届く。自分が周りにどうお思われているか、チェックする基準としては優秀だ。
陰口の渦には近づかない。これを、ずっと守り続けている。私は陰口を言われる立場だったので、避けられないことも多かった。だが、自分から関わることはなかった。
ハッキリ言って、人を貶める姿は美しくない。たとえ陰口を言われる人が、救いようのない悪人であったとしても例外はない。陰口を言う集まりは、どろどろした感情が渦巻いており、浮かぶ表情の数々を微笑ましいとは思えない。
こんな風に思うのは、これまでの体験のせいかもしれない。
いじめられっ子で陰口の嵐だったのに、全国大会出場が決まっただけでピタリと止まった。職業訓練所で悪口を言われていたのに、一部上場企業に就職が決まったと報告後、すり寄る人が激増した。笑えるほど、対応ががらりと変わった。
集団で誰かを踏みつける人は、
立場や肩書のような、
目に見えるものでしか判断できない人だ。
誰かを傷つけて喜ぶ人たちの顔は、コロッと対応を変え媚びる姿は、とても醜かった。私はその一員にはなりたくない。だから、陰口を言う集まりには近づかない。
類は友を呼ぶ、これほど人間関係を的確に表した言葉はない。短期間で見れば例外な人もいるが、年単位で観察すると同類が集まっている。脳は、自分と相手を見分けない。誰かにバカと言う人は、同じ数だけ自分にバカと語りかけている。そんな自分を大事にしていない集団の未来が明るいはずもない。陰口を楽しんでいる集団からは、離れるのが吉だ。
批判には、対案が求められる。
ただの批判は、陰口と変わらない。
自己紹介でもある記事
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