トラウマはケチャップのようだ
2020年1月9日 自宅
「いってくるぞー」
パートナーが出かけた。
ここ最近は心配ばかりかけていた。
「俺はアンタの尻に敷かれている」
あなたのような自由人の上に乗っていられるほど、私の運動神経は良くない。とはいっても、どう感じるかは個人の自由だ。私の居ないところで、ゆっくりと羽を伸ばしてほしい。
だって、お互い様だからだ。
私もひとりになる時間を待っていた。
自分以外が存在すると気が抜けず、人格のうちのどれかが常に警戒している。いくつもいる人格のひとりなので、こちらのコントロールが効かない。頭の一部がピンとひきつっているような感覚だ。最も気を許しているパートナー相手ですら、この神経の張りは完全にはゆるまない。
やっぱりな。
涙、こぼれてきた。
感情のフタが外れたのだろう。悲しさをまったく感じていないのに、目から水が途切れなく流れてきた。声も出ない、体も震えない、鼻水も出ない。ただ、涙だけが延々と止まらない。
この水だけが、心が傷ついている証明だ。
昔、泣くことができない状況を長く過ごした。最初の頃は布団をかぶって泣いていた。その悲しみを隠すレベルが、本人の手におえないほどに進化した。
まずは音だ。
声どころか、呼吸すら乱れなくなった。
次に鼻水が出なくなった。
目の下も、鼻の下も変色しなくなった。
ついに体が震えなくなった。
顔さえ見せなければ、隠す必要すらなくなった。
おまけに心すら動かなくなった。
隠すものすらなくなった。
この癖が未だに抜けない。
映画や小説などの物語では、鼻水を垂らしながら泣ける。自分以外の体験談で、もらい泣きもする。けれども、自分のことでは涙以外の変化が現れない。人が近づいた瞬間、自然に口角が上がり笑っている。小学校1年生のときにお化けが怖いと母に抱き着いた。これが、誰かに泣きついた最後の記憶だ。心の痛みで誰かの前で泣いた、そんな記憶は皆無である。
過去の記憶が深いトラウマになっているのだろう。今、私が泣いても恐ろしい体験をすることはない。頭はわかっているのに。心も、体も、納得してくれない。
トラウマは、まるで白い服に着いたケチャップのようだ。赤い色がなかなか落ちない。肉眼では落ちたように見えても、顕微鏡で観察すればしっかりと残っている。ふとしたときに、にじみ出ることもある。
しかも、無理に落とそうとするほど悪化する。こんなところも、トラウマはケチャップにそっくりだ。こすり過ぎて色が落ちないほどしみこませてしまったり、大丈夫だった部分にまで広がったりする。場合によっては、赤がしみこんだ服を捨てるハメになる。私が記憶を失ったように。
トラウマというのは、下手に向き合うと重症化する。心が傷ついた瞬間の記憶が再生されてしまう。しかも、ただの映像じゃない。五感の感触までクッキリと再現される。例えるならば、未来のバーチャルリアリティー機器に放り込まれたかのような感覚だ。過去にタイムトラベルと言ってもいい。夢よりも臨場感があるのは保証する。
二度と味わいたくない体験を延々と繰り返されるのだ。命を絶ったり、精神崩壊する人がいるのも不思議じゃない。このトラウマへの対処法は私と同じだ。
忘れる。
別に記憶を失う必要はない。他の出来事で、トラウマを記憶の奥底に押しやってしまうのだ。壊れたおもちゃがあったとする。整理整頓された部屋に置いてあれば、とても目立つ。だが、ごちゃごちゃ部屋の押入れの奥に放り込まれていれば存在すら忘れられる。
忘れることを不幸だと思う人がいる。
なんて、幸運な人だと思う。
いっそ、忘れられたら。
そんな風に思い悩んだ経験がない、
穏やかな人生を歩んでいる人なのだから。
忘却は最高の薬だ。
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