初対面で「もっと自分を大事にしなさい」と怒られた
2020年1月19日 百貨店
もう、これ以上は耐えられない。
私は非常ベルを押した。
今日は法律の勉強会だ。昨日、1日中ふとんでダラダラしたおかげで無事に参加することができた。だが、参加30分ごろからじわりと体調がまずくなってきた。おなかが痛い、血が垂れているような感覚がする。
念のため、出血をした時の準備もしてきた。
救急車に運ばれる時の準備もしてある。
最悪への備えは万全だ。
だが、別に最悪の展開にしたいわけじゃない。
友人の前で倒れるなんて、ごめんだ。
痛みはまだ笑えるレベルだ。出血量も生理よりは少ない。なんとか、おさらばしても不自然じゃない時間まで持ちそうだ。法律の知識を頭に叩き込みながら、時間が過ぎるのを待つ。いつもより発言ができないが、周りは変化に気づいていない。ニヤリ。
1時間が過ぎた。
席を立っても、おかしくないタイミングが来た。
用事があるような雰囲気を出しながら、別れの挨拶を言う。チラッと椅子をチェックする。やばい、血がついている。机の下でウエットティッシュを取り出し、血の汚れをぬぐう。ポケットティッシュで二度ぶきも忘れない。
足早に退出する。
エレベーター前で、勉強会の参加者と出会った。
こういう時に限って、向かう方向が同じだ。
世間話をしながら、駅のほうへ歩いていく。
百貨店が見えた。
「家族にお土産を買うので」
再会を約束しながら、百貨店前で別れた。
嘘ではない。
毎回、法律の勉強会のたびにパートナーにお土産を買う。パートナーはお肉と甘いものが大好きなので、地下の食品売り場で購入する。百貨店の中が駅への抜け道になっているのも理由のひとつである。何も購入しないのに近道として利用する。私のような小心者にはとてもできない。
いつも通り、地下へとエスカレータで降りる。
目についたモノを購入後、駅に向かおうと思っていた。
食品売り場のど真ん中でどぐっと腹が痛むまでは。
まずい、これはまずい。
痛みが強すぎる。
血だけでなく、固まりが落ちてきたような感触もする。
冷や汗が頬をだらりと流れる。
とても帰宅どころじゃない。
ここで、うずくまりたい。
だが、ここで倒れるわけにはいかない。
今日は日曜日だ。ここは駅チカの百貨店、しかも人気の食料品売り場である。そのど真ん中で倒れたら、多くの人に迷惑をかけてします。できれば、誰もいないところで救急車を呼びたい。けれども、移動に体が持ちそうにない。百貨店にご迷惑をかけるのは避けられないようだ。
せめて、迷惑をどこなら最小限に抑えられるだろうか?
うん、トイレだ。
車いすのまま入れるほど広い。
多目的トイレなら邪魔になりにくい。
非常ベルもあるので一石二鳥だ。
百貨店のスタッフさんを通さずに救急車を呼んだら大迷惑すぎる。多目的トイレなら、救急隊員さんも入りやすいだろう。救急隊員さんは男性が多い。女子トイレに突入なんて気まずいはずだ。
多目的トイレに向かう。
いつも利用しているので、位置はばっちりだ。
方向音痴でも迷うことはない。
着いた。
誰もいない。
これは運がいい。
待つ覚悟を決めていたので、空室で助かった。多目的トイレに入り、鍵を閉める。その場で倒れこみそうになった。まだだ、ここでは最善じゃない。非常ベルが側にある、便器に腰かける。後ろを振り向くと、血がまったく落ちていないピカピカの床が見える。よかった、掃除の手間を増やさずに済む。
便器に腰かけ、いろいろ確認する。血でズボンまで真っ赤だ。血色のゼリー状のかたまりもある。ググっとおなかが痛くなった。体からドンドン赤黒いものが落ちてくる。
自然流産である。
ある程度、血が落ちきるまで耐える。その間にカバンを引き寄せ、血が垂れないよう準備したアイテムを取り出す。そのまま移動なんて、床に血がまき散らされてしまう。準備しておいてよかった。筋力があれば、着替えも用意したのに。
できる限りの準備をした後、自分の状態を確認する。血の流れは弱まったがお腹の痛みはひどくなる一方だ。体が震えてきて、力が入らなくなってきた。体調が回復するなら歩いて帰ろうと思っていた。だが、どう頑張っても無理なようだ。
「ごめんなさい」
非常ベルを押した。
トイレットペーパーで届く範囲の血をふき取りながら、スタッフさんを待つ。数分後に警備員のおばさまが来てくれた。またまた運がいい。男性だったら、どう説明しようか困っていた。流産を伝えると、いたわりの言葉をかけながらテキパキと指示を飛ばす。こういう女性になりたい。
ふたりめも来た。
もちろん、女性だ。
今度の方は百貨店の管理部のスタッフさんだった。いわゆるトラブル専門のスタッフさんだ。事情を聴かれたので、お詫びを交えながら体調を伝える。
「売り場で倒れたら歩く邪魔だと思ったので、こちらに来ました」
「「もっと自分を大事にしなさい」」
へ?
「見える限りは拭きましたが、汚して申し訳ありません」
「「だから、もっと自分の体を優先しなさい」」
んん?
「女子トイレだと迷惑すぎると感じたので、ここなら他の方がトイレに入る邪魔にならないかなと」
「「もっと自分を第一に考えなさい」」
あれ?
事情を説明しただけなのに、三回も叱られてしまった。しかも、災害時に自分の命を最優先に逃げなさいとまで言われた。ご安心を、危機察知の能力と逃げ足の速さは証明済みである。
別に自分をないがしろにした気はない。ただ、接客業の経験が年単位あるので迷惑ポイントがよくわかるだけだ。短期だが、百貨店で働いたこともある。将棋と修羅場で磨いた先読みスキルが、トラブルを抑え込むルートを自動ではじき出しただけである。私はカーナビに導かれるように、そのルートの上を動いただけである。何も考えちゃいない。
それを言い訳交じりに伝えたところ、「性格なのね」とあきれ顔が返ってきた。これほど親しげに百貨店のスタッフさんに扱われるのは初体験である。初対面だということを忘れそうだ。まだ、出会って10分もたっていない。なぜかフレンドリーな空気になったので、3人で雑談をする。
腹痛で倒れそうじゃないのか?
お腹は痛いし、冷や汗は相変わらず止まらない。
だが、黙っている方がしんどい。
そして、私は知っている。
意識を失うと、危険度が上がるということを。
もちろん、百貨店スタッフのおふたりは知っているのだろう。こちらがわかっていることも気づいている。だから、にこやかに会話を続けているのだ。10年来の親友のような無言の交流が行われている。求められる前にお客さまの要望に応える、そんな接客を続けた者たちだからこそ、出来上がった場である。
15分後、多目的トイレがノックされた。
どうやら救急隊員さんが到着したようだ。
会話の時間はここまでである。
感謝の言葉をおふたりに伝えた。
再び、自分を大事にすることを念押しされた。
我がままなのにな。
納得いかないものを抱えながら、救急隊員さんとの会話を始めた。
なぜ、百貨店のスタッフさんと同じような表情なんです?
まことに理不尽な日である。
他人の評価と自分の評価は一致しない。
たとえ言葉は一致しても、中身が一致することはない。
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