悩めること=幸せなこと
2020年1月28日 自宅
仕方がない。
今回は延期だ。
今日は本来なら試験の日だった。だが、私は自宅で寝転んでいる。お腹がズクズク痛い。意識がすぐに途切れそうなほど遠い。おまけに、新型コロナウイルスなんて感染症が流行中である。この状況で、試験を受けるために百人単位の人混みへ突っ込む。それほど、私は無謀じゃない。父にも、パートナーにも止められた。
次に試験を受けるチャンスは半年後である。そんなにズレると、去年つくった年間予定表の書き換えが必要だ。正直言って、面倒くさい。あー、ヤダヤダ。
けれども、私は思う。
こんな風に悩める余裕がある。
幸せなことだ、と。
実は、病気以外でも死にかけたことが幾度かある。母親と心中未遂だったり、首を締められたり、夜道で襲われたこともある。病気ではなく、食べるものが無くて衰弱死しかけたこともある。
だから、つくづく身にしみている。
命の危機だと、人は悩まない。
「このまま死んだらどうしよう」
そんな考えが浮かぶスキ間すらない。ただ、生き残るための思考で頭がいっぱいになる。止める、逃げる、戦う。なんとか命の危機を乗り越えようとあがくだけだ。
そして、病気で死にそうなときも悩む余裕はない。苦しさで脳内が埋まっている。わずかに自由になる思考も「ここで命が終わるなら、やっておけばよかった」との後悔でいっぱいだ。意識が消えそうだと、思考することすらできなくなる。
心が壊れそうなときも、これまた悩まない。死にたいとか、殺してほしいとか、思えるうちは意外と死なない。心が壊れ、死に向かうときは無意識だ。なぜか建物の屋上で風にびゅぅと吹かれている。ふと目を開けると、走る電車との距離が5㎝で鼻に触れそう。気づいたら、階段の一番上で空中に足を延ばしている。目が覚めたら、手首の血管スレスレに刃がギラリと光っている。私は直前で我に返ったからこそ生きている。
だから、私は断言できる。
悩めるうちは、まだまだ大丈夫だ。
悩んでいる間は死なない。
不運にも命を落とすことがある。
誰かにコントロールされて、死を選ぶこともある。
だが、自ら命を絶つのは簡単ではない。
「死ぬ勇気があるなら、生きればいいのに」
このセリフ、私は好きじゃない。自ら死に向かうのは勇気ではない。心が耐え切れないから、無意識が楽になるために死を選ぶのだ。身体の生ではなく、心の生を優先した結果である。『生きたい』という、生き物の本能を飛び越えるのは生易しくはない。
悩むときは、大いに悩めばいいと思う。 真剣に悩んだ経験は、その後の人生で役に立つ。なぜならば、悩んだ時ぐらいしか頭を酷使しないからだ。人は省エネ体質だ。思考という疲れる行為を、出来るだけ避けようとする。悩んでいるとき、人は嫌でも脳を使い倒す。悩むのは、頭の筋トレのようなものだ。
大切な人が危険な目に合っている。
こういうときも、悩まなくなった。心配はもちろんする。失ったら、どうしようと不安になる。悲しい気持ちに覆われそうにもなる。けれども、なぜか悩む気持ちになれない。
わかっているからだ。
相手が生きているからこそ、悩めるのだと。
失った瞬間に、悩みが消失すると。
だから、私はどんなときも出来ることに集中する。自分ではどうにもならないことは受け入れるだけだ。悩んでも、現実は1ミリも変わらない。それを、嫌というほど味わったからだ。
悩めることは、幸せなことだ。
これに気づいた時から、悩むことが無くなった。
人の心理とは不思議なモノである。
悩めるうちは、いくらでも悩めばいいのだ。
命が終われば、悩むことすら出来なくなるのだから。
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