身体が動かないが、問題はない
20202年1月31日
ついにきた。
身体に力が入らない。
痛くて動けない、いつものパターンではない。身体にさっぱり力が入らない。1分座るだけで、意識がぼやけてくる。体調悪化の始まりである。
うん、予想の範囲内だ。
問題はない。
産婦人科で体調が戻るのに半年と言われた。その瞬間から覚悟はできていた。これまでの経験でわかっていた。流血するような症状のあとは、回復前に必ず体力の低下が襲ってくる。だてに二けた以上、死にかけてはいない。
おそらく健康な人なら、体力の低下を感じずに治る人もいるだろう。だが、私は流血との相性があまりに悪すぎる。免疫の働きが常に不安定、鉄分とタンパク質がひどいときには同年代の10分の一もない。おまけに、体力は高齢者の父にとてもかなわないレベルだ。コップ半分の量の血液検査でも、毎回のように数週間は体調が崩れる。
だから、どこかのタイミングで身体が動かなくなるとわかっていた。最悪の想定からすれば、この程度はかわいいと言えるレベルである。階段を下りている最中に力が抜けて、大けがをする予想も立てていた。室内で動けなくなるとは、幸運としか言いようがない。
私は最悪の基準はズレている。パートナーにすら「悪く考えすぎだ」と怒られる。仕方がないじゃないか。ほとんどが体験済みなのだから。階段から落ちるパターンを思いつけたのも、リハビリ時代に力が抜けて何度も階段から転げ落ちそうになったからだ。
最悪の想定をする。口にするのは簡単だが、かなり難しい行いだ。なぜならば、想定の土台が自分の体験だからだ。特に命の危険がなく過ごした人と、私のように何度も死にかけた人の想像が一致するはずもない。
私の基準は死だ。
だから、起こるトラブルが最悪を超えることはない。
最悪の想定を超えた時、おそらく私は死んでいるだろう。
死ぬことすら、私にとっては想定の範囲内である。
だからこそ、身体が動かない程度で動揺することはない。ブログの毎日更新をやめる気もない。身体が動かない場合の対処法もすでに実行済みだ。最悪の想定と対処法はセットで考えるものである。この考え方を教えてくれた、ジェフリー・アーチャー氏の小説には感謝の言葉しかない。アリガトウ。
最悪の想定をすると、実際に味わうことはない。
何も考えていないと、最悪のトラブルが襲ってくる。
人生とは奇妙なものだ。
e-hon(2020年6月12日、売切中)
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