違うが同じ、同じだが違う
2020年2月11日 自宅
ぶっ飛ばしたい。
ニコニコしていても、
心まで笑顔だとは限らない。
私の特徴である。
『みんなちがって みんないい』
金子みすゞ氏の遺した詩の一部だ。
この言葉におおむね同意する。
なぜならば、『みんないい』と思えなければ争いになるからだ。
人はそれぞれ違う。その違いを正しいとか、間違ってると言い出したらきりがない。いつまでたっても、結論が出ることはない。まったく同じ生き物なんて、この世には存在しない。自分自身ですら、10年前の自分と同じではない。
だが、みんなちがう。
この考え方だけだと、別の問題が出てくる。
『それぞれが違う人なのだから、分かり合えるはずがない』
過去の私の考え方である。
人が関係することに対して、とにかくあきらめが早かった。相手を観察して、受け入れられそうな提案だけをする。両親も例外ではない。3歳ぐらいから20代前半ぐらいまで、人に対する期待値はゼロだった。誰かに無条件に甘えたことなど一度もなかった。
この考えが変わったきっかけは、寝たきりである。
寝たきりになって、自分だけではどう頑張っても生活できなくなった。半ばあきらめながら助けを求め、意外なことに助けてもらえた。その積み重ねで、徐々にひねくれた考え方が変更された。
『それぞれ違う人だが、息をしているのは皆同じ』
人という生き物である以上、呼吸をしなければ死んでしまう。どれほど意見がかみ合わない相手でも、息を吸って吐いている共通点はある。なんでも話せばわかる、とまでは言わない。だが、話せば分かり合えることもあると学んだ。
けれども、『みんなちがって みんないい』に完全に同意はできない。好みの違いがあるのは当たり前だが、好きなモノをバカにされたらムカッ腹が立つ。
本なんて意味がない。
ゲームは無駄でしかない。
流行りの映画に価値はない。
アンタの母親はダメな人だった。
にこやかに受け流す内心で、太ももに回し蹴りをきめたいとか考えてしまう。自分が大切に想っている対象をコケにされれば、蹴り飛ばしたくもなる。
こういう言い方をする人はまず意見を変えない。それを経験から学んでいるので、反論したりしないが。時間の無駄は好きじゃない。縁が断ち切れるなら全力でぶった切る。気安くバカにする人は、人間関係のトラブルを抱えている人が多い。当然である。大事なモノをバカにされて、嬉しく感じる人はまずいない。表情に出さなくても、心の中で激怒している。できるだけ近づかないのが吉だ。
そして、人は同じだと考えすぎるのも危険である。それぞれの違いが受け入れられなくなるからだ。「自分と違う意見だなんて許せない」、なんて極端に走る人をたくさん見かけた。ちょっとの違いを許せない、過激派だらけの世の中は争いしかない世界だろう。これならば、分かり合えないとあきらめている方がよほど平和だ。
同じところも、違うところもある。
ゆるく考えられるようになったら、心穏やかに過ごせるようになった。同じだとか、違うだとか、気にしなくなった。ありのままに観る、この境地に一歩近づけた気がする。
それでも、大事なモノをバカにされると怒りが燃え上がる。
穏やかな心であり続けるのは、難しいものだ。
人間関係は鏡である。
批判されたくなければ、批判をしないことだ。
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