人のご縁はビリヤード
2020年2月18日 自宅
「よかったら、来ませんか?」
「喜んで」
「はや」
対応が漢らしい、よく言われる。
顔に似合わずは余計なコメントだ、友人よ。
私は自分から声はかけても、連絡先はめったに聞かない。そんなことをしなくても、会話が盛り上がれば自然と連絡先を交換する流れになる。相手に渡されたとき、こちらも差し出せるように名刺を持ち歩いてはいる。最近はFacebook、LINE、Twitter、どれかの交換になことがほとんどで出番はまずない。おかげで名刺をつくった直近は3年前だ。
毎回、会話が盛り上がるとは限らない。3回に1回は大きな会に参加しても、一人でほえほえしている。特に気にすることもなく、用が済めばにサクッと帰る。基本、一人で参加するので去るのも身軽である。
「なんで、連絡先を自らとりに行かないのか?」
私にとって、無駄だからだ。
ご縁がうすい方に時間を使う余裕がない。
まず人脈を広げるために何かに参加する気がない。元々、ひとり楽しすぎる性質なので、大勢の中で一人ぼっちでもまったく気にならない。会場のアチコチを一人で見て回って、スタッフさんの邪魔にならない程度に話を聴くのも大好きである。しかも、体力が年齢プラス30歳ぐらいしかない。下手に交友関係を広げると、付き合いで消耗して倒れる。営業職時代によく理解した。広すぎる交流は身体が持たない、と。
というわけで、人のご縁は運命に任せっきりである。
並ぶ順番が近かったとか、指定の席が隣だったとか、偶然のめぐりあわせで知り合った友人がほとんどである。ネット上でも、この方針は変わらない。ちなみに、親友はたまたま同じクラスで、たまたま帰りの電車で近い場所にいたのが出会いだ。パートナーなんて、引っ越しの挨拶が出会いである。
気の合う人と交流を深める。
これだけでも、なぜか友人は増えていく。
話が盛り上がり、友人になる。
その友人が、新しいことを始める。
応援の気持ちで参加する。
そこで、話が盛り上がる。
そして、友人が増える。
ひたすら、似たパターンの繰り返しである。
ご縁のビリヤード現象と私は呼んでいる。球と球がぶつかって、また別の球にぶつかるように人のご縁が広がっていく。近くでもぶつからない球もあれば、ビリヤード台の端と端でも数秒でぶつかる球もある。そんなところも、人のご縁とよく似ている。
このビリヤード現象の良い点は無駄がないところだ。友人からのご縁なので、「あの人の紹介なら大丈夫」という信頼がある。大会のシード選手のように、人間関係の最初のハードルを飛び越せる。会話で盛り上がってからの連絡先交換なので、「あんな人とは思わなかった」という勘違いが起こりにくい。エネルギー消費が少なく、互いに不幸なスレ違いがない。私にとって、ベストな方法だ。
この方針の弱点は、知り合いが思うようには増えないことだ。完全に運命任せなので、1年間、まったく付き合いが広がらないこともある。新しい知り合いから刺激を受けたい人には物足りないだろう。
人とのご縁は増えた方がいいか?
私はどっちでもいいと思っている。明日、死ぬかもしれないと覚悟して生きているので、この瞬間を味わう方が大事だからだ。それに、ご縁があるならば何度でも偶然に出会える。だから、私は執着しない。
そう、言ったら「生き方が極端すぎる」と友人に責められた。聞いたのは、友人のなのに。まっこと理不尽である。
人の縁は切れやすい。
だが、まれに何をしても切れない縁もある。
縁とは不思議なものだ。
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