本・ゲーム・動画は怒りの例外
2020年3月1日 自宅
誰かと争うぐらいなら、本を読んでいる。
私は面倒くさがりやだ。
そして、怒るのは疲れる。
普段、私は怒りを面に出さない。元々、体力に余裕がない。怒りに使うエネルギーがあるならば、別のことに使う。それに、自分とまったく同じ考えの生き物なんていない。意見や好みは人それぞれだ。わざわざ感覚の違いを議論する気もない。そんな私にも例外がある。
物語
物語が関わるとイラッとしてしまう。
本・ゲーム・動画など、対象は問わない。
「本なんて読む価値がない」
「ゲームは無駄のかたまりだ」
「最近の映画は中身がない」
つい、ムカッとしてしまう。
自分がバカにされても、都合のいいように利用されようとしても、笑顔でかわせるのに。どうしても物語を貶されるとドスンと踏みつぶしたくなる。「そういう、お考えなんですね」と口角を上げていても、瞳に殺意を浮かべてしまう。相手には気づかれないので問題はないが。
なぜ、物語は怒りの例外なのか?
理由は3つほど思いついた。
好きで、恩人で、トラウマだからだ。
私は物語が好きである。
ご飯どころか、寝るのを忘れるほど好きである。
はじめて自宅にインターネットがつながった月、1ヶ月で450時間ほどネット小説を読み続けた。19歳で体力があったとはいえ、3日完徹の繰り返しは危険行為だった。当時はCRTという画面で、今の液晶ほど目に優しくなかった。そのせいで、とんでもないことになった。ネットを楽しみ続けた15日目、世界がセピア色になった。パソコンの画面はカラフルなのに、目線を逸らすとすべてがセピア色だった。手も、髪も、唇も、薄いグレーとイエローを混ぜた色に見えた。失明の危機を感じたのは、あの時だけである。
おまけに、私は人生のどん底を物語に救われた人間だ。
気づいたら、動いてる列車と鼻先のすき間が3㎝ない。無意識に死に身体が向かうほど、精神ギリギリだった心を救ってくれたのは物語だった。恩人の悪口を聞けば、「ちょっと裏まで来てください」と微笑みと共に言いたくなる。
そして、トラウマである。
亡くなった母を親せきや近所の人に、様々な言葉でこき下ろされた経験がある。質が悪いのが、100%ウソではなく事実を織り交ぜた嫌味だったことだ。小学生を数人の大人が囲んで親の悪口を吹き込む。今思い出しても、「消え去れ」と塩をぶっかけたくなる記憶だ。このトラウマが蘇ってしまうのだろう。
好きなモノを汚されたような、恩人に危害を加えられたような、トラウマという古傷をナイフでえぐられたような痛みを感じる。だからこそ、私は物語をバカにされると怒りのスイッチが入ってしまうのだろう。
ただの過剰反応である。
相手に悪気は、たぶんない。
自分の正しさを語っているだけである。
自分のダメさを自覚しているので、怒りのまま行動することはない。だが、どうにもムカつく腹が収まらない。そして、パートナーにトバッチリがいき「八つ当たりするな」と怒られる。ゴメンナサイ。
怒りを隠すのは得意だ。演技を見抜けたのはパートナーぐらいである。それなのに、一度感じた怒りを消化するのがド下手だ。何とかする方法は、いつもこれである。
物語に浸る。
時間を決めずに、ひたすら本を読む。
これで、すっきり怒りが抜ける。
代わりに、体力を消耗して高熱を出す。
そして、またパートナーに説教を食らう。
この怒りのエンドレスリピートから抜け出す方法はないものか。
答えは未だ出ない。
怒りは暴れ馬である。
理性の手綱を離せば、がけ底まで一直線だ。
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