沈黙の攻防
2020年3月5日 自宅
また、炎上している。
発言には気をつけよう。
心に刻んだ。
世の中の余裕は削り取られたようだ。昨年までとは、ツイッター上のバトル件数が違う。1年以上の交流があり、その間にトラブルを見かけなかった。そういう人たちですら、一部がコメント欄で周りを巻き込んでもめている。
何か特別な発言をした、というわけではない。普段通りの発言が批判される。カチンときた怒りのままに言い返す。それに相手がさらに批判を重ねる。そこに、お互いのフォロワーが混ざって騒ぎが大きくなる。まったく関係ない人も集まりだし、最初の二人が落ち着いた後も完全には収まらない。
そんな騒ぎが、Twitter上でたくさん燃え上がっている。普段から過激な発言で燃えているところは、さらに火力が上がっている。黙ったら負け、そんなノリで延々と言い争いが続いている。
そこまで、黙っているのはダメなのか。
私には不思議でならない。
接客業や営業経験があると伝えると、よく言われる。
「話すのが上手なんでしょうね」
「どうやって説得するんですか?」
「論戦が強そうだ」
とんでもない。
私は話すのが苦手である。
早口で高めの声、見た目もちみっちゃく子供っぽくみられる。おまけに舌が上手に回らない。英語どころか、ラ・リ・ル・レ・ロすらキレイに発音できない。「え? なんだって」と聞き返された回数は数えきれない。話し上手とは真逆である。そんな話すのがダメダメな私が使ったのが、これである。
沈黙
笑顔でうんうん頷いたり、短く話してスッと静かになったり、じーっと相手の目を見つめる。できるだけ、相手が話すようにもっていく。
基本、人は話すのが好きだ。無口な人でも、好きなことなら海の波のように切れ間なく話し続ける。黙っているだけで相手の気分が良くなり、おまけに個人情報も手に入る。こちらの意見を求めるまで、にこやかに地蔵のごとく存在すればいい。チャンスが来たら、得た個人情報を分析して、相手の好みに合ったプレゼンをすればいい。簡単な話だ。
この対応はネット上でも同じである。
発言は最小限、詳しくない分野には口を出さない。
何を投稿するか、ではなく
何を投稿しないかに注意している。
投稿寸前でことばを削ったり、投稿自体をやめてしまうこともよくある。言いたいことや思いついたことを、そのまま投稿したりはしない。『自分がするべき投稿か?』、『これを投稿することが、いい結果を生むか?』、一度は考えてから投稿ボタンを押す。リツイートなどの拡散も無断使用などの問題がないかチェックしてから行っている。
ここまで神経質と言われそうなほど注意するのは、自分の身を守るためだ。類は友を呼ぶ。何を投稿するかで自分の周りに集まる人が決まる。批判が多ければ批判好きな人が、本の話が多ければ本好きが集まるものだ。どういう人たちと交流したいか。この考えが、私の投稿基準である。私の体力は70歳の父より少ない。相性が良くない人たちと議論で消耗する。そんな疲れる浪費をする気はない。
たまに、ちょっかいをかけてくる人がいる。相手の投稿を観察して、質が悪そうなら即ブロックする。そこまでひどくないなら、反論しにくいコメントで打ち返す。だいたい、1回で相手は黙る。投稿というのは、自分の情報をさらけ出しているようなものだ。まず黙って相手を分析する。その後、反撃にうつる。沈黙というのは、ただ耐えるのではない。攻撃のための時間でもある。
行動が早くて、語りがうまい人が賞賛されやすい。だが、その足元はたいてい脆い。何でも言えばいいってもんじゃない。じっくりと状況を観察して、最善の方法を考える。これができない人は、どこかで手痛いトラブルにぶつかる。相手の情報を収集して、考える時間を手に入れる。沈黙は、とても有効な手段だ。
気分よく語っているとき、
自分が周りを躍らせているのではない。
周りに自分が踊らされているのだ。
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