死はマイコーチだ
2020年3月30日 自宅
「体調悪いなら、寝とけ」
ごめん、無理だ。
それだと、何も出来なくなる。
体調がいい時なんて、ないのだから。
今日も時間制限を抱えて、パソコン前に座っている。体温が上がりきってしまう前に、いかに早く終わらせるか。ゲームのタイムアタックのノリでコンマ1秒を攻める。37℃を超えると、体温が下がるまでに1時間以上の休憩が必要になる。36℃台なら、30分程度で冷や汗がひく。毎日、この繰り返しだ。
こんな状況なので、数えきれないほど言われる。
『無茶をするな』
私は無茶をしている気はない。熱、痛み、だるさなど体の異常があるのに作業をする。それを無茶というならば、聞けない話だ。生まれてこの方、体に異常が無かった記憶がない。むしろ異常があるのが、私の正常である。あまり苦痛を感じない時は、感覚がおかしくなるほど体調が悪い時だ。その方が、よっぽど危険な状態である。
おまけに私は線維筋痛症という病気だ。この病気は動かなければ、痛みが悪化する病気だ。痛いからと休んでばかりいたら、さらに痛みがひどくなってしまう。体調が悪い時に動くのが、私にとってのベターなのだ。
傍からみれば、無茶をしているようにみえるのだろう。けれども、私にとっては無茶でも何でもない。死線を二けたは潜り抜けているのだ。本当にヤバい時はなんとなくわかる。伊達に生まれる前から、死と腐れ縁をしているわけではない。
死を怖がる人は多い。
だが、私にとってはコーチのような存在である。
腐れ縁という言葉がでるほど、私には死が身近だ。それほど近しいと、生物としての恐れぐらいしか残らない。頭の中の指定席には死のプレートがある。だから、何かを決める時、必ず死を土台とした思考が走る。
「1秒後に死んでも、後悔しない?」
この思考のアミを通ってから決断する。なので、一度決めたらブレずに済む。死が基準なので、その場のノリで決めて後悔することもない。シンプルなので、グダグダ考える時間もいらない。少なくとも、面倒くさがり屋の私がソコソコしっかり生きているのは死のおかげである。
体の調子が悪ければ、だらだらしたくなる。それは、体調の悪さに慣れっこな私だって同じだ。後に身体が痛くなると知っていても、鎮痛剤でごまかせばいい。そんな破滅的な思考がよぎるときもある。そんな弱い私を、励ましてくれるのが死だ。
「何もしないままで、終わっていいの?」
いやだ。
読みたい本や遊びたいゲーム、つづりたい言葉が次々と浮かぶ。
だから、今日も起き上がることができる。
死は不安や恐れを呼び起こす。他人の死ならともかく、自分の死を喜ぶ人は少ない。できるだけ、自分の側から遠ざけようとする。残念ながら、無駄な行為だ。自分の影から逃げようとするようなものだ。自分という存在がある限り影が消えないように、生きている限り死は離れない。
日本に住む多くの人より、私は死との距離がちょっと近かった。だから、死と生の関係に気づくのが早かった。おかげで過剰に恐れることなく、それどころか得がたいコーチが365日24時間、見守ってくれている。死を意識していなかったら、これほど楽しく日々を過ごせなかっただろう。何事もとらえ方次第だ。
死ほど、偉大な教師はいない。
いつだって、真実だけを教えてくれる。
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