ゲームの世界は救いだった
2020年4月14日 自宅
今日はゲーム『刀剣乱舞』を始めた日だ。ゲーム内で5周年おめでとうの特別メッセージが聞ける。額にぬれタオルをのせながら、にやけた顔で期間限定の演出を楽しむ。5年前にゲームを始めた時も、こんな感じだった。
当時、ほぼ寝たきりだった。体中が痛くて体温も高いが、原因は全くわからない。病院に行く元気もなく、ただベッドにいるだけ。1日で意識がある時間は3時間ほど、クッションに持たれながらノートパソコンでネット文章を読むのが楽しみだった。スマートフォン? タブレット? 外出ゼロだったので、購入する必要もゼロだった。
それが今では、1日10時間以上も起きていられる。月数日とはいえ、外出もできる。なんの支えもなく、自分の足で歩くことができる、5年前には想像もつかなかった世界だ。ベッドでゴロゴロしているのは同じでも、状況は大きく違う。ゲーム『刀剣乱舞』も、今ではスマートフォンで楽しめる。パソコンしか遊ぶ選択肢が無かったので、ゲーム『刀剣乱舞』を遊ぶために冷や汗ダラダラで起き上がっていた。そんな頑張りはもう必要ない。だらりと寝転びながら、スマートフォンでぽちぽち遊べる。堕落万歳だ。
ちなみにゲーム『刀剣乱舞』を始めたきかっけは、面白い文章を書く作家さんが熱狂していたからだ。流行には乗らないが、狂乱には飛び込む。なぜならば、流行はつくられることも多いが、熱狂には本気しかないからだ。この5年間で、多くの時間とお金が旅立っていったが後悔はない。あの日の選択は正しかった。教えてくださった作家さんと同じくらい、今も変わらず熱狂している。
ゲームなんて無駄?
人にとっては無駄どころか、憎しみの的だろう。不況関係なしでゲーム産業が伸びている。ということは、過去に人気だった分野からお客さん、直球で言えば売り上げと利益を持ち去ったということだ。持ち去られた関係者にとっては、憎んでも憎み足りないだろう。
だが、私にとっては本と並んで恩人のような存在だ。病人というのは選択肢が少ない。兄弟もおらず、それどころか家庭環境も良いとは言えない。そんな私には、ゲームというひとりで完結する世界はハンデなく楽しめる唯一の場所だった。おまけに、今ではゲームを通じて交流できる場所がたくさんある。同じゲームが好きな人同士との交流は、寝たきりだった時代の数少ない外の世界と触れ合える時間だった。
健康じゃないと同じ舞台に上がれない。
そんな世界は世の中にゴロゴロある。だが、ゲームの世界は別だ。ペンも持てないほど痛くても、歩けないほど貧弱でも、決まった時間に起きられないほど熱があっても、ゲームの世界では関係ない。アクションゲームはまた別だが、『刀剣乱舞』や『シヴィライゼーション』、『シムシティ』などのシミュレーションゲームや『ドラゴンクエスト』に『ファイナルファンタジー』のようなロールプレイングゲームなら問題ない。将棋や囲碁などもネット対戦なら気をつかわずに楽しめる。病人だからと、手加減されても嬉しくない。ガチバトルだから、ゲームは楽しいのだ。
楽しいというのは偉大だ。少しでも気がまぎれれば。救いを求めるような気持ちでゲーム『刀剣乱舞』を始めた。私の好みのど真ん中を貫かれ、時間を忘れるほど熱中する毎日を過ごしていたら、起きていられる時間がぐんぐん伸びていった。歩けるようになろうとリハビリする気になったのも、体調が回復していたからだ。さすがに明日を生けれるかわからない状態でリハビリしようという発想はでない。これも日々の楽しみをくれたゲーム『刀剣乱舞』のおかげである。出会うきっかけをくれた作家さんとずっと支えてくれる家族へも感謝である。
未来というのはわからないものだ。
ゲーム『刀剣乱舞』を遊ぶ度に、よぎる想いだ。
誰かにとっての毒は、
誰かにとっての薬である。
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自己紹介でもある記事
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