修羅場は理想が通じない
2020年4月22日 自宅
ここ最近、見かけるのが減った言葉がある。
「お金がなくても幸せ」
現実が厳しくなって、理想を語れなくなったようだ。私は思う。このセリフを言いたいならば、断食・穴が空いた服と靴・お風呂なし生活、これを最低でも1か月は体験してから語ってほしいものだ。私はすべて経験済みだが、お金がなくても幸せとは言えない。お金はとても大事である。お金で幸福は買えないが、不幸を減らすことはできる。
きれいな言葉というのは耳に心地いい。だが、修羅場ではまったく役に立たない。自分が思うようには世界は回っていない。何事も話し合いで済むほど世の中は優しくない。
「誰とでも話し合えばわかりあえる」
いじめを隠蔽する学校組織が、一生徒の意見を聞き入れたのか?
「暴力は絶対にダメだ」
夜道で襲いかかってきた人物が、言葉だけで引き下がったのか?
「信じていれば、すべての願いは叶う」
延命をやめてくれという叔父の願いは叶ったのか?
すべてがノーだ。
いじめから私を守ったのは、自らの逃げ足だった。全身打撲を負いながらも、相手の急所をぶん殴ったから最悪の事態は避けられた。叔父の意見はまったく受け入れられず、自ら命を絶つことでしか叶わなかった。理想だけで生き抜けるほど、現実は甘くはない。
だが、現実だけというのも生きづらいものだ。現状を全肯定だと何も良くならない。アレルギーや原因不明の病気への理解が広まった。インターネットの普及で貧弱体質ができることが増えた。叔父のように、本人の地獄の苦しみを無視して延命するような事態は減った。私が子供の頃よりも良くなった現状はたくさんある。それは、理想を胸に現状を変えようとした人たちがいたからこそだ。
ただ、 現実を直視しない理想というのは何の役にも立たない。むしろ、害になることが多い。最近、やっと不登校が認められる例が増えた。もっと早く認められていれば、いじめが原因で自殺した子供たちの数は減っただろうに。皆勤賞が素晴らしいという理想の負の側面だ。
理想を当事者が語るならいい。けれども、ほとんどの場合は違う。まったく関係ない人が理想を語っている。きついことを言うならば、現実を知らないからこそ軽々しく理想を語れるのだ。現実を味わえば、どうしても口は重くなる。なぜならば、現実はひとつの理想で解決するほど単純じゃないからだ。
お金持ちの人がよく言うセリフがある。
「貧困ボランティアで現実を知りなさい」
「風呂なし共同トイレの暮らしをすれば、お金がないのも平気になる」
日本レベルとはいえ、貧困を味わった身からすれば寝言にしか聞こえない。貧困の人たちと暮らしても、お金がない生活をしても、貧困を理解なんてできない。数年暮らしたから、わかっている? それこそ、寝言の極みだ。
あなたたちには、帰る場所があるじゃないか。
これまでの人生で蓄えた、知識と体力があるじゃないか。
貧困生活者は後がない。助けを求める先も、逃げる場所もない。ただ、日々の生活を耐えるのみだ。ぼろぼろの服で臭いにおいを漂わせた、自分への冷たい目線に傷つく。こんなもの、貧困の入り口ですらない。周囲の冷たい目線を何とも思わなくなってからが本番である。逃げる場所があるかぎり、貧困の厳しさなんて理解できない。
理想を語るのは気持ちがいいだろう。正論は称賛もされやすい。だが、厳しい現実を生きる当事者にとって、その言葉が追い打ちになることもある。語るだけならまだマシだ。ときには理想に酔った人が、現実を生きている人の邪魔をすることもある。傲慢以外の何物でもない。悪意ある行動よりも、よっぽど人を傷つける。
言葉と同じく、理想も人を救うこともあれば殺すこともある。何かを語る前に、現実とまっすぐに向き合えているのか。常に心がけたいものだ。
私は理想を語る気にはなれない。
現実を受け入れるだけで精一杯の弱い人間だから。
理想の味は甘い。
ただし、溺れれば死を招く。
自分だけでなく、
他者の命を奪うこともある。
甘いものよりも、
理想とは恐ろしいものだ。
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