心配コメントが届く
2020年5月6日 自宅
あちゃー。
相手の表情が固まっている。
また、やってしまったらしい。
合わせるって、難しい。
ありがたいことに、ブログ記事への感想をちょこちょこ頂く。たまに、すごく申し訳ない気分になる。それはこんな時だ。
心配コメントが届いた。
体調のことを書くのは、文章をよりわかりやすくするためだ。読者の皆さまにご心配をおかけする気はない。優しい言葉を頂くたびに、嬉しさと申し訳なさが同居する。ごく普通の日常を描いただけの記事に心配コメントが届くと驚きもする。
え?
そんなひどいこと書いたっけ?
どうしようもないほど世間とのズレを感じる。この感覚ズレがまったく直る気配がない。これは文章だけではない。対面では、もっとやらかしている。
「調味料がおかず、ウナギのたれは贅沢品」
「両足がつっても、動くのに支障はない」
「体温38℃は余裕、本番は40℃から」
何度、場を硬直させたことか。凍りついた雰囲気を味わうまで、自分の基準がズレていることすらわかっていなかった。さすがに高校生ぐらいで学習した。実体験をそのまま話すとまずい、と。
それからは、世の常識をリサーチして合わせるようにした。うまく答えられない時は、あいまいな笑みで煙幕をはった。基本、人は話したがりだ。相手の好きな分野に話題を振れば自動的にうやむやになる。受け身の会話スキルが上がっていった。
周りに合わせる会話をしていて気づいたことがある。それは、普通の基準はバラバラだということだ。同じ内容でうなずいていても、頭に浮かんでいる光景が少しずつ違う。例えばリンゴと言った場合、ある人はフジ、ある人は紅玉、人によっては青リンゴを思い浮かべている。それなのに、表向きは全員賛成なんて結論になっている。対話は誤解の積み重ねでもある。ズレているのは自分だけではなかった。すごくホッとした。自身のズレは人々が一時停止するほどひどい。そんな現実からは目を逸らした。
自分の基準は、世の中の基準と同じだ。
その基準から外れたものは、どれもおかしい。
こういう考え方だと、どうしても行く先々でケンカになる。立場が強ければ、周りがイエスと言ってくれるかもしれない。けれども、それは心からの同意ではない。裏では嫌味の嵐になっている。そして、立場が弱くなれば隠れていた不満が一気に噴き出す。責める相手も、責められる相手も、美しくない。ひどい場面を何度もみた。
自分は同じ目にあいたくない。どうすれば避けられるか、こんこんと考えた。考えた末にたどり着いた答えは『人の数だけ基準がある』だった。正義だけじゃない、基準も人の数だけ存在する。基準を気にする必要は最初からなかった。世間ズレしてたっていいじゃないか、そんなゆるい結論に至った。
この答えにたどりついたおかげで対話に使うエネルギーが減った。周りに合わせるのも体力が必要だったらしい。今では気楽に話せるようになった。場にふさわしい話題は選ぶが、驚かれるのは気にならなくなった。感覚は体験の積み重ねで出来あがるものだ。人生が変わっているのだから、感覚が変わっているのも当然だ。そんなありのままを受け入れた。変人、上等である。
ただ、読者の皆さまにご心配をおかけするのは申し訳ない。苦痛の一般基準を身につける方法がないものか。感覚ズレの悩みは当分終わりそうにないようだ。
存在すると縛られる。
されど、存在しなければ揉め事を呼ぶ。
あれば厄介、
なくても厄介、
基準とは扱いにくいものだ。
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