代わりの体で得るものは
2020年6月25日 自宅
「同じにはならない」
それでも、いいんだ。
ある記事を読んだ。 行きたいところに行けない人の分身となるために作られたロボット『OriHime(オリヒメ)』についての特集だった。この手のひらサイズのロボットは、寝たきりや障がいなどの症状がある人も協力して作られている。動けない本人に代わり、どこにでも行ける。その『OriHime』の評判には、こんなものもあった。
「生身の感覚とは違う」
「参加しているとは言えない」
「所詮、子供だまし」
今年、コンサートがオンライン配信したときに踊ったコメントと似た意見が並べられていた。病が絡んでいるせいか、表現は多少マイルドだったが。
基準が違うんだな。
これが、私が抱いた感想だ。おそらく、これらの意見は対面の臨場感には届かないと言いたいのだろう。本人そっくりな大阪大学の石黒教授のアンドロイドとは違い、見た目は似ていない。話せない人が使用した場合は声も違う。匂いや触った感覚はない。味もわからない。現実にはほど遠い。そう、評価したのだろう。
みえている現実が違うと気づかぬままに。
酷評する人たちは、『OriHime』が参加する場に自分も存在できるという前提で語っている。だが、『OriHime』を利用する人は違うのだ。最初から、参加できるなんて期待はないのだ。そんな触れることのできない場所に少しでも関われる。それが、どうしようもなく嬉しいのだ。
その気持ちが、私には少しわかる。
私はコンサートを会場で観る機会は一生ない。感染症の流行は関係がまったくない。免疫が弱いので、人が多い場所に長時間いてはだめなのだ。風邪、インフルエンザ、はしか、風疹など、どれに感染しても命がピンチだ。コンサートの臨場感を味わう機会なんてない。だから、コンサートのオンライン配信には歓喜した。観ることのない世界を楽しむことはできた。生放送と販売された動画は違った。編集された映像は美しい。けれども、その瞬間だけの一体感はわずかしか残っていない。その違いすら、コンサートをオンライン配信で観るまでは知らなかった。
同じ感覚なんて、高望みはしていない。
ただ、ほんの少しでも触れたいだけなのだ。
どうしても届かない場所に。
『OriHime』、今は映像と音がメインだ。これで終わりとはとても思えない。分身を通じて五感を楽しむ。それを多くの人に提供できる時代もいつかは来るだろう。すでに、その技術はあるのだから。
動けない体は他人事ではない。
人は、年齢とともに動けなくなっていく。私のように、人生に諦めがセットな生き物は慣れている。「また、できることが減ったか」と思うだけだ。動けない体に深く苦しむのは健康だった人だ。当たり前だったものを失う。その落差に耐えられずに心を壊す。
もし、自由に動かせる分身がいたら?
心の負担も少しはましだろう。
たとえ、自分の身で味わう感覚に届かなくても。
いろんな意味で、私は『OriHime』の未来に期待している。
誰かにとっては足らないものが、
別の誰かにとっては夢なのだ。
自己紹介でもある記事
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