文章が映し出すもの
2020年6月27日 自宅
これはひどい。
床で転んで頭をぶつけ、記憶が抹消されればいいのに。
毎日、文章を読んでいる。どれほど体調が悪くてもこの行動だけは欠かさない。読み続けた年数は軽く30年を超えた。そのせいか、なんとなく書き手の姿が文章の奥に薄ぼんやり見える。たとえ、一行広告だったとしても。
人はひとりでは存在できない。それは、文章にまぎれた書き手の姿も変わらない。最も前にいるのは書き手自身だが、周りに集う人も陰のようにいる。連載など、同じ書き手の文章を読み続けているとさらによくみえる。
痛々しいと強く感じるのが、若かりし頃の写真がついている文章だ。今が幸せならいい。そういう文章は逆にほほえましく読める。昔の失敗談を穏やかに語っているようなイメージが浮かぶ。写真が撮られたころの喜びはなく、何かにすがって強がっている文章がきつい。周囲にいる人たちとうまくいっていないと怨念がとりついたかのようなドロドロしたものまで映っている。もはや絶望すら感じない、砂漠よりも荒れ果てたイメージよりはマシではあるが。
顔は心の鏡、という言葉がある。どれほど取り繕っても、本性は顔に現れるという意味だ。この意味に、私は付け加えている。映し出すのは本人の心だけじゃない。置かれている環境も表情を作っている。苦しすぎる環境ならば、顔色はどす黒くなり、頬がやせこけるか異様にむくむ。目の色も光が無くなるか、逆にギラついてくる。過去の自分の写真は幽鬼にしか見えない。その事実が多くを教えてくれた。
その顔と同じくらい、文章も多くを教えてくれる。これは、他者の文章だけでなく自分の文章も同じだ。しんどいときやイライラしているときに書いた文章は、どうにも余裕がない。私の場合、言い方がキツイどころではない。何も考えずに浮かんだ言葉をつづっただけなのに、ことごとく紹介するエピソードが修羅に満ちている。普段が正露丸糖衣Aならば、余裕がない時の文章は水でしけった正露丸だ。漂っている香りが毒と間違われるレベルである。あまりのひどさに悶絶する。それなのに、毒もどきの文章はいつもより閲覧数が多い。強すぎる暗い情念が人を引きつけたとでもいうのだろうか。謎である。
読み返すたびに頭を掻きむしりたくなる。投降した文章を消す人の気持ちがよくわかる。私も消したい。だが、読者の私が「過去にお気に入りの文章が削除されて悲しんだ気持ちを忘れたのか」と仁王立ちしている。一度、インターネットに投降した文章はこの世から消えないのも知っている。
毒が薬になることもあるさ。
乾いた慰めを大ダメージを受けた心に贈る。
私にできるのは、これだけだ。
言葉とは、まことに恐ろしい。
人は自らが思っているほど、
本性を隠せていない。
何気ない一言にも
自分のすべてが含まれている。
自己紹介でもある記事
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