体が動くのは、 いつまで?
2020年6月28日 自宅
おのれ。
今日も、体が動かない。
「明日は何しようかな?」
寝る前によく考える。だが、健康な人とはちょっと思考が違う。「起き上がれなかった場合は~」「午後に体調が崩れた場合は~」「3時間ぐらい動けたとしたら~」、起きている時間をすべて使える想像の前に、動けない場合のプランが10は浮かぶ。『そんな考えだから体調を崩すんだ』とポジティブ派の人には責められそうだ。仕方がないじゃないか。満足に動ける日が1年に10日もないのだから。
そんな私も、子供のころは走ることができた。周りと比べて発育が悪く、運動量も少なかったので足は遅かったが。けれども、現在のように早歩きをするだけで関節が痛み、転びそうになるほどひどくはなかった。
別にそれを悲しいとは思わない。「走る解放感を知らなければうらやむ気持ちは軽かった」「少ない期間でも味わったからこそ、走ることを臨場感をもって書ける」という二つの意見が脳内で喧嘩することはあるが。元々、走れた時も周りと同じではなかった。映像の中のパーティー会場にパジャマで放り込まれたような場違い感、あれを二度と味わなくていい。どちらかと言えば、解放感の方が強かった。
こんな風に、普通からズレているのが当たり前な生き物はいい。けれども、普通の輪の中にいた人が転げ落ちると悲劇が起こる。病院に通うのが日常だと、どうしても人が嘆く現場を見てしまうことがある。
「どうして自分がこんな目に」
「悪いことなんて、何もしていないのに」
「昔に戻りたい」
人生なんて、理不尽で不公平なものですが。
小学生の頃には思考が冷め切った。そんな私には、嘆けるのがうらやましくすら思える。嘆くのは期待していたからだ。ずっと健康でいられる。それは、今までが健康だったから抱ける考えだ。
健康はPCのプログラミングのように論理で動いてはいない。どれほど睡眠・食事・運動に気をつけていても治らない病気になる人もいる。暴飲暴食、明らかに体に悪い行動を何十年も積み重ねても元気で長生きする人もいる。そして、健康を持たずに生まれる人もいる。事故で前触れもなく失う人もいる。
気をつけていれば、
寿命まで元気に過ごせる。
よく宣伝で見かけるが嘘っぱちである。生まれ持った肉体の強さと運が健康に占める割合はとても大きい。確かに、健康に気をつければ元気に過ごせる確率は上がる。だが、それで安心ができるほど生きるとは甘くない。むしろ、健康じゃないと不幸だという考えが弱った人を追い詰めている気がする。
動ける時間を楽しめばいいや。
これが、小学生の私の結論である。この結論は今でも変わっていない。動けないという現実は、気にしても気にしなくても1ミリも動かない。どうせ変わらないなら、楽しく過ごした方が生きやすい。なぜ、動ける貴重な時間を悩みでつぶさなきゃいけないのか。そんな時間があるならば、私は読書やゲームに時間を使いたい。
どれほど元気な人も
いつかは動けなくなる。
現実は受け入れるもので、逃げるものじゃない。
どうせ、いつか追いつかれるのだから。
健康のため、
ランニングを始めた人が疲労骨折した。
現実から離れた計画は
今あるものすら失ってしまうものだ。
自己紹介でもある記事
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