”わかる”は使えない
2020年7月3日 自宅
”わかる”
私にとっては、使いづらい言葉だ。
全面同意できる投稿に出会った。だから、コメントを書いた。『思わず、首がブンブンと上下運動しました』と。”わかる”と書けば済むのに。キーボードを打つ回数も少なくなるのに。それでも、わかるとは打てない。
だって、自信がない。
私が言葉から受けた印象と投降者が言葉に込めた想いが完全には一致しない。それどころか、少しも重なっていない可能性もある。それなのに”わかる”という言葉は使えない。
他者のつづった言葉に限らない。
どうにも”わかる”という言葉は使いづらい。
勉強という答えが用意されているものですら”わかる”と言えない。問題に正解しただけでは偶然かもしれない。似たパターンの問題も正解でも、きちんと理解できているとは言い切れない。問題を作ることができても、問題の元になった理論を読み解けているのだろうか。ぐるぐると疑問が浮かび”わかる”を使えなくなる。
みえない人の心なんて、もっと複雑だ。他者の発した言葉が本音かどうかもわからない。本音だとしても、相手が自分をごまかしていない保証はない。ごまかしていないとしても、環境の変化で中身のない言葉になったりする。どれほど観察しても答えは固まらない。だから、誰の発言にも”わかる”が使えない。
自分自身すらわからない。過去を振り返って、あの時の自分は嫌なことを見ないふりしていたと気づくことがある。おまけに、私は解離性障害持ちだ。過去の記憶がいくらか抜けている。本来なら、自分の土台となる過去すら不安定だ。こんな状況をみて、自分のことを”わかる”なんて、どう頑張っても言えない。
「あんたは考え過ぎだ」
パートナーによくツッコまれる。まったく否定ができない。こんなのは、どれだけ情報が集まっても決まらない問いだ。不確実に目をつぶって「わかった」と言い続ければ、もっと気楽に過ごせるだろう。
それでも、私は”わかる”にウソをつけない。
現実から目を逸らし、わかったつもりに浸るぐらいなら。不安定なまま、わからないに住み続ける。この世界は、いちいち物事を分析するハメになるので手間はかかる。ニュースひとつをとっても差は歴然だ。わかったつもりでよければ、流されたニュースをそのまま受け入れれば数秒で済む。周辺情報を集めて分析して、いくつか仮説を立ててどれが現実に近いか考える。仮説が合っていたかどうか、何らかの答えが出るまでニュースを追い続ける。わからないの世界はこれだけ面倒だ。
なぜ、わかったつもりで満足できないのか?
一度、変えようとしたが無駄だった。無意識にあれやこれや考えてしまう。考えが浮かんでしまうと調べないと気が済まない。我慢するとイライラする。調べて自分なりの答えが出るまで落ち着かない。幼稚園児のときにはすでに手遅れだった。なんで、貧弱な体にこんな性分をもって生まれてきてしまったんだ。こういうのは体力が人並み以上の生き物向けだろう。ステータスのミスマッチに嘆けども、どうにもならない。
だから今日も、ふとんの上で寝ころびながらポチポチと調べ物をしている。インターネット時代に生まれたのがせめてもの救いだ。部屋が本で埋まらずに済んでいるのだから。
”わかる”を使う日は、これからもほとんどないだろう。
わからないことだらけなのだから。
”わかる”
この言葉ほど、反対の意味で使われている言葉はない。
自己紹介でもある記事
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