物語が好きだ
2020年7月5日 自宅
この世界があるからこそ、今日も私は息をしている。
今日もおふとん生活だ。
その傍にはタブレットがある。
20代までは紙本だった。ふとんの周りに本の柱がいくつかできたものだ。ぽやぽやと数日過ごしていると出現している、つくった記憶はないのに。よく家族に「崩れる前に片づけて」と怒られた。
そのころとは違い、ふとん周りはすっきりしている。だが、その中身は変わっていない。タブレットに吸収されただけだ。バーチャルリアリティーのように、ふとん周りの景色が仮想の世界に移っただけである。私の行動は何ひとつ変わっていない。
物語を読む。
いろいろな分野の文章をよむが、圧倒的に物語を読む時間が多い。文章というのは慣れてくるほど読むスピードが上がる。新聞記事を読むスピードを1とすると、物語は3のスピードだ。父に「パラパラとページをめくっているようにしか見えない、パートナーに「本当に読めているのかそれ」と疑われるスピードらしい。私自身は物語の世界にダイブしているので読んでいる意識すらない。もちろん、早さもわからない。
ちなみに判断基準は面白いしかない。名著と言われるようなお堅い本だろうと、人気アニメの二次創作だろうと、古典のようにサクサク読めない言葉だろうと関係ない。面白い物語であれば何でもいい。ほわほわ甘ったるい恋愛小説も、男性向けエロ系も、多くの人が挫折する難解な本も、本から血が滴りそうな殺戮ものも読んだ。『犯罪予備軍を作りたいのですか?』と著者に問いかけたくなる話も読んだ。私の中には面白さという基準しかない。
なんで、ここまで物語を読むのか?
きっと、おふとん生活が長いからだろう。例えば、TVを観て「行きたい」「食べたい」と思っても99%は叶わない。海外旅行どころか、3駅先の場所にすら自由に行けない。購入するお金があっても身体が受けつけなければ、口にすることはできない。父いはく、ワガママを言わない子だったらしい。美味しいものを食べたら、高熱と咳とじんましんなどで1週間以上は苦しんだ。こんな経験を何度かすれば、幼児だって我慢を覚える。ワガママというレベルの話ではない。
となれば、想像しか道はない。
私にとって触れられないものは、物語の世界もこの世界も同じである。手が届かないという意味では違いはない。想像するのはただである。あれもこれも楽しみたい。結果、物語を好んで読む習慣ができた。
この物語好きが、人生トラブル時に威力を発した。
人生トラブルにわかりやすい正解なんてない。トラブルが霧散するまで、状況に合わせた対策を打ち続けるしない。その対策を考えるときに、物語がとんでもなく役に立たった。物語というのはトラブルの宝庫だ。トラブルに飲まれたまま悲劇で終わる物語もあるが、その多くはトラブルを解決して幕を引く。言い換えれば、物語はトラブル対策の詰め合わせである。そのままは使えなくても、応用すれば使える手法が数えきれないほどあった。おかげで、今日も私は生きている。
人生トラブルに備えようと思って読んでいたのではない。物語の世界が好きだから、毎日のように読んでいる。好きじゃなかったら、体温40度で文章なんて読めない。なお、役立ち度が高かったのは戦記ものだった。人間関係ぐちゃぐちゃの陰謀バトルがとても参考になった。
その事実を振り返るたび、微妙な気持ちになる。
大きな禍で団結できる物語の世界の方が優しい世界だったな、と。
人類、大丈夫?
物語の世界より
現実の世界の方が鮮やかだ。
良くも、悪くも。
自己紹介でもある記事
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