「たまには休んだら」は悪魔の誘惑
2020年8月2日 自宅
甘い言葉は危険だ。
日々、私は試されている。
「病気には見えない」
外出時によく言われる。家のドアを開けた瞬間に着ぐるみを装着する。私の演技力はまだ落ちていないらしい。だが、その擬態も毎日のように顔を合わすパートナーには通じない。日に当たっていない肌の青さ、気づかぬうちにある腕や足についた痣、1日で顔の輪郭が変化するむくみなどは隠せない。なので、こう言われる。
「たまには休んだら」
毎日、ブログ記事を投稿しているのを目撃している。というよりも、投稿が続けられるのはパートナーのおかげである。一人じゃ食事すら満足にできない。咳をすれば飲み物を差し出し、体温が上がれば冷やしてくれる。パートナーの尽力に支えられて、日常生活が成り立っている。フラフラなのをよく知っているので、「1日ぐらい、いいじゃないか」と無理を止めようとする。
気持ちはありがたい。
だが、断る。
毎度、「嫌どす」とお断りする。わかっているからだ。一度でも甘えれば、投稿が続かなくなると。実際に読解力クイズ『よむトレ』の問題の投稿は続いているが、休止した小説版は再開のめどが立っていない。運動法則のように止まってしまうと動き出すのに大きなエネルギーが必要なのだ。だからこそ、ブログ記事の投稿はやめない。逆に絶対にしないと決めていることがある。
お酒は一人で飲まない。
どうしても飲みたければ、お店に入って飲む。
ギャンブルで自分のお金は使わない。
アルコール中毒の母とギャンブル中毒だった父、この二人を観察して自分も同じ依存症になる可能性が高いと判断した。だから、この決まりを作った。ウィスキーや焼酎をストレートで飲めるアルコール分解力の強さと父に頼まれてパチンコを打った経験はあるが、未だこの決まりは守っている。宝くじすら、私は買わない。ちなみに、父にはパチンコを代わりに打つ代金として1日1万円を要求した。父の勝ち負けは関係なく利を得られる取引だ。20代の頃のいい小遣い稼ぎだった。すべて本代に消えたが。アルコール中毒とギャンブル中毒からは距離をとれたが、活字中毒につかまってしまった。遺伝というのは怖いものである。
何かを始める。
何かを止める。
どちらも、簡単には流れは変えられない。それをよくよく知っているので、私は今日も「たまには休んだら」というパートナーの姿を借りた悪魔の誘惑に「ノー」と応える。どれほど粘られても、断りづらい説得をされても譲らない。
誘惑に染まりやすい。
自分自身をわかっているから。
自分をしる、
これがスタートラインだ。
己を知らずに、
うまくいく物事はない。
自己紹介でもある記事
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