自分基準だとズレる
2020年8月6日 自宅
「壮絶ですね」
この程度で、その扱いなのか。
定期的に『7つの習慣』のビデオチャット勉強会に参加している。2時間半なのだが、PC前に座り続けている体力はない。だから、ビデオは切って発言中以外は寝転んでいる。ネット上に投稿された、ズボンを履いてなかった動画のようなミスはごめんだ。ウェブカメラの接続線は引っこ抜いてある。ぬかりはない。
自分の番が回ってきそうなのでPC前に戻る。その30秒後、名前を呼ばれた。3分ほどマイクに向かって声を出す。終了、すぐにふとんに戻る。現在の時刻は21時過ぎ、体調が崩れやすい夜だ。消耗は最小限にしないと危険だ。熱や痛みは映像がないのでバレないが、声を騙すのは難しい。ぜんそくの発作が起こっても誤魔化すスキルはあるが負担はキツイ。体力温存のためにも、参加している人たちの時間を無駄にしないためにも、発言は手短を心がけている。
それなのに。
次の発言者の方に「なんと言葉にしていいか、壮絶ですね」とのコメントをいただいてしまった。なぜだ。勉強会の進行に沿った内容で、発言を少なくするために過去のエピソードを最低限ぶっこんだだけなのに。えぐい部分はキッチリ切り取って盛り込んだのに。私は、どこでミスってしまったんだ。
全部だった。
切り取り後の過去エピソード、すべてがアウトだった。どうも、修羅場なしの人生を歩まれているらしい。私と同年代だったせいで、自分と比べて落差に驚いてしまったようだ。ワンエピソードを薄めて淡々と話したのもダメだった。考えたこともない体験を感情を交えず語れることも衝撃だったようだ。
ネット上で語る体験は、どれだけ広げられても問題ものだけを選んでいる。それは、勉強会というメンバー限定のビデオチャットでも変えない。私にとっては、その程度のエピソードでしかない。
それなのに、すごく動揺させてしまった。
まことに申し訳ない。
自分の基準が他者とズレている自覚はある。だから、ひど過ぎないエピソードを穏やかな言葉を使って語るようにしている。それでも、たまに失敗してしまう。周りに合わせるというのは難しいものだ。
「こんなことあったようね」「あった、あった」という話題に同意できないことも多い。現代日本の平均人生と外れているので仕方がない。あいまいな笑みで佇むだけだ。そういう現実を知っているので、他者の言動をおかしいと思うことはない。自分基準というのはみんな違う。自分が普通と思う基準が、他者からすれば異常なのだと受け止めている。自分の心の安定のために。
さて、この微妙な空気をどう元に戻すか?
こういう対応も慣れてしまった。
「死ななきゃ、何とかなるもんですよ」と言ったらズーンとした空気は晴れた。「うえたさんが言うと言葉の重みが違う」とのコメントを壮絶発言と別の方にいただいてしまったが。
変人ポジションが強固になってしまったようだ。
手痛い代償だ。
あなたの普通は、誰かの異常である。
そして
誰かの普通は、あなたの異常だ。
つまり
すべてが、普通であり異常なのだ。

完訳 7つの習慣 人格主義の回復: Powerful Lessons in Personal Change
- 作者:スティーブン・R・コヴィー
- 発売日: 2014/05/23
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自己紹介でもある記事
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