歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【歩くリトマス試験紙の反応記録】議論はなんのため?

議論はなんのため ?

 

2020年9月3日 自宅

 

細かいことは気にしない。

 

自分のために。

 

 

書くのは体力はいるが、読むのはあまり疲れない。おまけに文章の世界に入り込めば、身体のしんどさも気にならなくなる。そういう生き物なので、どれほど体調が悪くても文章を読まない日はない。特にインターネット上の文章は、読みやすい工夫がされているものが多い。タブレットが手放せない毎日だ。

 

そうやってネット上を徘徊していると、議論が自然と目に入ってくる。ちょっとの差でよくぞここまで言い争いができるな。日常生活もあるのに、さらに議論で気力・体力を使えるとは。その元気さが、ちょっとうらやましい。

 

私は議論をあまりしない。どうしても引けない時は、相手の心を折る勢いで全力をかける。そこまで状況が迫っていなければ、意見はいろいろだよねで終いだ。絶対に負けられない場面はめったにないので、議論の数は自然と少なくなる。

 

昔から、穏やかに話を聴く縁側のおばあちゃんタイプだったのではない。人間不信バリバリの頃は、笑顔と敬語を装備で相手の考えを叩き潰した。自分から議論をふっかけたことがないが。今のように受け流すのではなく打ち返していた。たとえ、相手の立場や年齢が自分より上でも。報復ができない形で自信を削った。『やられる前にやれ』が信条だった。そのうち、面倒くさくなってスルッと議論を避けるようになった。だって、面白くなかったから。

 

 

この体験に太刀打ちできる人はあまりいない。現代日本で過ごすほとんどの人は、高齢になるまでは命の危機を味わわない。自他ともに15歳まで死に囲まれていた私は戦中の人と意気投合したことがある。食べるものがなく空腹をごまかすことも、大人同士の欲にまみれたいざこざに巻き込まれることも、親など自分に責任がないことで頭を下げることも、ストレス発散や集団がまとまるための生贄にされることも、一桁年齢で体験済みである。そして、とどめが活字中毒だ。人間不信だったので、戦術・戦略・犯罪・騙し・拷問・洗脳の本もたくさん読んだ。

 

「死ななきゃなんとかなる」

「空腹や激痛など体の苦しさが限界を超えると悩む余裕がなくなる」

「三途の川近くに何度も訪問すると、細かいことがどうでもよくなる」

 

そして、この思想である。ほとんどの人は5分足らずで立ち去った。なお、オタクかつ幼稚園の時から父の隠し持ったエロ本も読んでいたので下ネタにも弱くない。ギリシア神話や中国古典などでディープな世界も知っていた。セクハラやらかす人間には、遠回しに3倍はえぐい実例を出して追っ払った。

 

カウンター撃破を繰り返して、学んだのだ。

 

人は、議論に負けても自説は曲げない。

心を折っても、私に恐怖するだけで自説は変えない。

 

つまり、相手をする意味がない。

 

結果、議論は避けるようになった。より良い結論を出そうとする前向きな議論か、叩き潰さないと悪影響が残るとき以外はスルーするようになった。

 

議論は手段であって、目的ではない。

 

これが、私がたどり着いた結論だ。

 

 

議論は熱くなりやすい。

 

熱くなるほど、勝率は下がるのにね。

 

 

 

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