議論の勝敗に意味はない
2020年9月3日 自宅
議論をしても相手の意見は変わらない。
けれども、その行いに意味はある。
議論に勝っても、相手は意見を変えない。ハリネズミ並みに臆病で、他者の余計なちょっかいに毎度カウンター針のようにぶっ刺していた頃に学んだ。ただ、議論に意味がないとは思っていない。議論で相手の意見は変わらない。だが、その他の人は違う。
周りで議論を眺めている人たち
意見を変える可能性が高いのはコチラだ。
議論相手はどうしても勝敗が頭にある。しかも、対象は自分の考え方だ。意見の否定なのに、自身の否定と同じように受け止める人も多い。感情の問題なので、その場にいる自分以外の全員が意見の間違いを論理的に説明したとしても弾かれる。むしろ、意地になり自説にしがみつく。意見の中身ではなくプライドの問題なのだ。冷静に自説を再分析、誤りを認める人はほとんどいない。だいたい、私のような見た目弱そうな生き物に議論を吹っかけるような人は、ロクでもない思惑で近寄ってきたのが大多数だった。そういう人に冷静さや公平さを求める方が間違っている。
だが、周りで眺めている人は違う。観ているだけなので、議論の行方がどうなっても自分のプライドは傷つかない。意見を変えるのは難しくない。少なくとも、他者に指摘させて変えるよりはたやすい。つまり、議論は目の前にいる相手を打ち負かすためにするのではない。議論を囲んでいる周りを自説に引きずり込むための手段なのだ。
いい例が議会政治だ。民主主義の場合、結論は多数決で出す。投票する全員が意見を言うわけじゃない。代表者数名が議論、他の大多数は聞いているだけだ。議論相手が出した案に反対のままでも過半数が賛成ならばOKだ。実際は、こんなに単純ではないが基本はこれである。企業でも、スティーブ・ジョブズ氏ほどTOPの権利が強くない場合は似たような形で決まる。
周りを味方にすると考えるならば、議論の前からすでに勝負は始まっている。自身の立場、周りとの関係、相手の情報収集、普段の行動や身だしなみなど、議論の場だけ物事が決まると考えるのは甘すぎる。
もっと言えば、議論で勝つことも多数決をとることも手段だ。目的のために必要だから目指す。目的が叶うならば、議論でわざと負けるのも大多数をとれないのもありだ。
本音は賛成だが、立場で反対しないといけない。
一部の熱狂的な仲間が増えればいい。
相手の油断を誘いたい。
あくまで議論は目的を達するための手段だ。大多数の人に理解される必要も、議論相手を打ち負かす必要も、本質的にはまったく必要がない。議論している者同士が裏で組んでいるプロレスもどきは世の中にたくさんある。目の前で言い争っているんの同士が対立しているか、そんなのはよほど観察しないとわからない。
ある議論に注目した場合、私は議論した内容だけでなく周辺情報も集める。参加者の人間関係や議論前後の行動、議論の結論で動いた状況など色々と観察する。そうすると、参加者の本音や議論の目的がうっすらとみえてくる。この分析をするたびに、議論の中身だけでは実態はわからないものだと思わされる。
こういう視点が持てたのも、修羅場時代に負けたフリもよく使った経験があるからだ。貧弱・貧困・未成年の弱いステータスだらけの存在が、強い立場の人間や集団の上を真正面から叩いたら後で自分が困る。1対1なら心をポキポキ折ればいいだけが、周りに自分の強さをアピールしたいのかお供を連れてくる人がほとんどだった。相手のメンツをつぶさないように勝ちを譲り、二度と寄ってこないように痛いところを突く。そんな面倒な対処を数えきれないほどした。
勝たない議論を繰り返した。そんな生き物からみると、議論の勝敗にも意味がないとしか思えない。大事なのは自分が得る結果だ。計算通りに負けるのも、議論を上手に使うコツである。
議論の勝敗も、手段のひとつにすぎない。
これも、私がたどり着いた結論だ。
議論の勝敗にこだわる。
とても、ありがたい議論相手だ。
勝ちを譲りさえすれば、
どうとでも結果を自由に選ぶことができるのだから。
自己紹介でもある記事
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