ぼっちだからこそ、みえるもの
2020年9月17日 自宅
気分は体育の見学中
いつだって、輪の外だ。
私はぼっちだ。みんなの中に混じていても、心はちょっと離れている。集合写真の日に休んで一人だけ丸で囲まれ写真右上にあるような、完全に分かれてないけどいっしょじゃない。とても微妙な立ち位置だ。
病弱、転校の繰り返し、当時は珍しい両親の離婚など
人様とは違うステータスだらけで、どんなときも、どこにいっても、大多数に混じれない。混じったふりはできても、物事の考え方が周りとは違う。15歳まで本音を言わなかったのも、自身の発言で場の空気が凍らせてしまったことが何度かあるからだ。人間不信や家庭の事情だけが原因ではない。
集団の中の孤独
この感覚がキツイ。いじめなどで叩かれなくても、とても空しい気持ちになる。一人でいる方がよっぽど気楽だ。20歳が小学生だけのクラスに放り込まれたような居たたまれなさを味わった。周りはゲームの攻略で騒いでいるとき、私は母がまた自殺未遂をしても止められるように早く家に帰らないとなんて考えていた。これほど思考が違うのだ。周りに合わせて笑っていても、内心はため息の嵐だった。
成人して、学生時代より周りとの差はマシになった。けれども、やっぱり大きくズレている。人はそれぞれ違う。他者と思考が完全に一致することはない。みんな、少しずつズレている。それでも、周りとはわかりあえない点が多いとの感覚は抜けなかった。食事だけみても、1か月以上空腹のままだった経験がある人は少数派だろう。私の体験はこんなのばかりである。歩んでいる人生の共通点が少なすぎるのだ。近づける努力をしたこともあるが、同じ体験をしても捉え方が違う。成人までの経験がその人のものの見方の基本を作るようだ。結局、共通の話題が増えるだけで終わった。
悪あがきをしたが、どうにもならなかった。
ぼっちなのは仕方がないか。
どうしようもない現実を受け入れた。
すると、面白いことに気づいた。
状況がよくみえる。
体育の授業があったとする。グランドの様子が最もよく観察できるのは、授業を受けている生徒たちでも教えている先生でもない。一人ポツンとブロック塀に座っている見学者だ。
私は常に体育の見学者だ。ワイワイする人たちの中には入れない。ずっと、ぼっち感覚だ。だからこそ、少し離れた場所から静かに観察ができる。集団心理に飲まれることもない。集団から外れる恐怖を味わうこともない。集団の一員ではないからこそ、ある程度は自由に動ける。授業中でもこっそり眠れるのは見学者の特権だった。
どんな状況にも強みがある。
ぼっちも例外ではない。
ぼっち万歳!
輪の中にいる限り、
輪の全体を把握することはできない。
自己紹介でもある記事
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