すべての色に価値がある
2020年9月22日 自宅
「こんなものは無価値だ」
ほんとうに?
「いつも読んでいるけど、それに何の価値があるんだ?」
文章を読んでいると、たまにパートナーに聞かれる。読みたいから、としか応えようがない。価値とか考えたことがなく、「しんどいなら寝とけ」と言われようとも延々と読み続けている。
時は金なり
時間は大切だが、すべて効率的に動く気はない。だいたい、時間を有効に使えと言われても何が良いかなんて決めようがなかろう。海外旅行がいいとか、資格試験がいいとか、英語を学べばいいとか、ちょっと検索すればオススメ行動は見つかるが。
それは、誰にとっての”いい”なのか?
誰それの行動が悪いとか、こういう時間の使い方は無駄だとか、この事件は過去最悪だとか、よく耳にするが。
それは、誰にとっての”わるい”なのか?
ひねくれ者なので、つい考えてしまう。
「名文だけを読め」
「書籍化した文章レベルじゃないとね」
「くだらない文章を読むとセンスが落ちる」
文章でも、こういう決めつけは聞く。個人的にはどうでもいいと思っている。読み手が楽しい時間を過ごせたなら、それで十分じゃないか。それに、学ぶところのない文章は存在しない。伝わりにくい、不快、裁判沙汰になった。そういう問題アリアリな文章はトラブルを避けるための参考になる。文章がわかりにくくても、内容が興味深い文章もある。文章も内容もパッとしないのに、込めた想いの強さだけで面白い文章もある。
私は文章を書いている。
この立ち位置だと、無価値なんてないと言い切れる。
画家がすべての色を活かすように。単独では映えない出来事でも、混ぜたり、付け加えたり、配置を変えることで人の目をひく絵になる。どう光を当てるか。どういう額縁を使うか。どのタイミングで発表するか。絵以外にも工夫の仕方が数多くある。
例えば、問題アリアリ文章があったとする。同じ傾向の文章を探して、ダメなところを分析、「よくある文章失敗ポイント」という記事をつくれる。同じようなダメ文章をつくって、自分でツッコミを入れる。コメディ劇のような記事もつくれる。心が寒くなった文章を真剣に嘆く、気持ちが重くなるような深刻な記事も書けなくはない。
こんなものには価値がない?
私なら、価値を見出せない自分を責める。
ちょっと視点を変えるだけで、いくらでも価値は見つかる。
何に価値を感じるか?
その発言に現れるのは
評価されている存在の価値でない。
発言者の価値だ。
自己紹介でもある記事
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