歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【歩くリトマス試験紙の反応記録】不安と痛みは似ている

不安と痛みは似ている

 

2020年9月23日 自宅

 

それに触るな。

 

もっと、苦しくなりたいのかい?

 

 

今日も体がうまく動かないので、代わりにネット上をウロウロしている。こんなノリを20年以上も続けているが変わらないものがある。古典でもよく見かけるので、おそらく人間の習性なのだろう。

 

不安を嘆く文章が多い。

 

不安に意識を向けたところで問題が解決するわけじゃない。ほとんどの人がそれをわかっている。それなのに、不安を置き去りにすることができない。不安がつのるほど、判断力も落ちるのに。

 

この不安という厄介なもの、私は痛みに似ていると感じる。

 

痛みは気にしないと思っても気になる。命にかかわるようなケガの痛みじゃなくても。紙で指を切ったぐらいの、放っておいてもすぐ治るようなケガの痛みでも神経に触る。痛みがあるだけで体の動きがぶれる時もある。治りかけるとかゆくなり、かさぶたをはがしてしまい血が出て治るのが遅くなる。

 

後から振り返れば『気にするようなことじゃなった』と思うようなことで頭がいっぱいになり、そのせいで思考力が落ちてミスを繰り返す。もうすぐ問題の素が横で見ているだけでも無くなるのに、不安ゆえに余計なことをして解決が遅れる。

 

とても、性質がよく似ている。

似ててほしくない、扱いにくい部分が特によく似ている。

 

ただ、似ているのは良くない面だけじゃない。痛みも不安も防衛システムだ。痛みも、不安も、心身の弱っているところを教えるシグナルだ。もし、痛みや不安がこの世に存在しなかったとしたら? おそらく、人間の寿命はもっと短かっただろう。実際に、まったく痛みを感じない無痛症の方は寿命が短くなりやすい。恐ろしいのは、生まれつきだけでなく事故などで元々痛みを感じる感覚があった人が無痛症になった場合でも寿命が短くなることだ。

 

私は痛みがない世界を味わったことがある。その当時は、とても体中にアザや傷が多かった。なぜならば、何かぶつかってもまったくわからないからだ。たとえ、それが刃物だったとしても。服を脱いだ時に目にするまで、ケガをしていたことにすら気づかない。血が流れても、汗との区別がつかない。布に赤がにじんで「あっ、血が出たんだ」と認識できる。足首がねんざしても、なんか動かしにくいなとしか思えない。たぶん、骨折したとしても似たような感想だろう。

 

厄介だけど、大切なものである。

その性質だけでなく、対処法も同じく似ている。

 

痛みの素を手当てしたら、傷が治るまで触らない。

不安の素に対応したら、感じなくなるまで意識を向けない。

 

とにかく、放置あるのみだ。痛みを気にしても傷は早く治らない。不安に駆られても問題は無くならない。つまり、気にすればするほど心身の負担が増えるだけだ。とはいっても、気にしたくなくても気になるものだ。だから、一度にひとつのことしか考えられない思考の仕組みを利用する。好きな事でも、仕事でも、家事でも、なんでもいい。他の作業で思考を塗りつぶす。倒れない程度に、不安や痛みが思考に入り込まないほどン没頭してしまう。

 

私の場合は文章7割、ゲーム2割、その他1割だ。没頭している間は、不安も痛みも感じない。副産物として集中力が上がる。頭が乗っ取られるほどの不安や痛みに負けないのだ。多少のことでは乱れない集中力が身につく。スキルが上がりすぎると、時間経過も体調悪化も気づけなくなるが。何事にもメリットとデメリットがある。

 

不安も痛みも、一生離れることなく付き合っていくものだ。

どうせ付き合うなら、仲良くしたい。

 

たまに、この世から抹消したくもなるが。

かさぶたと同じく、放置あるのみだ。

 

 

形なんてないのに、

形あるものよりも頭を占める。

 

どうなのかよりも、

どう感じているかを重要視する。

 

人間の癖を

不安や痛みはよく現わしている。

 

 

 自己紹介でもある記事

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