人生は競技ではない
2020年10月1日 自宅
突然、隕石が降ってくることもある。
それが、人生だ。
今日は、書籍『7つの習慣』の勉強会(ビデオチャット)だった。本日のテーマは計画の立て方だった。時間に追われるのではなく、自分が大切なものを積み上げるためにはどうすればよいか。そして、目標を達成するためにどう修正すればいいか。挫折しやすいポイントはどこか。それぞれの実体験に基づいた発言が飛び交った。私自身も参加しながら、思ってしまう。
計画通りにいかないのが、人生なんだよね。
山の上に旗があり、平らな場所からゴールへの道が続いている。
横並びスタート、ゴールが遠くに見えている。
階段がずっと先まで続いている。
それが人生だったら、どれほど楽なことか。
知らない山の中が始まり、
そこに猛獣がいて開始後すぐにゲームオーバーもある。
スタート地点はバラバラ、ゴールなんて見えない。
階段が途切れていることもあれば、
踏んだ瞬間に足場が壊れて深い穴に落ちることもある。
最初のうちは両親というサポートがつくが、そのサポートがいない人もいる。サポートとは名ばかりで、虐待という攻撃してくる場合もある。どういうステータスか選べず、どこをスタート地点にするかを選べず、サポート相手も選べず、ゴールがどこかも最期までわからない。
運の要素がとても大きいゲーム、それが人生だ。
スポーツ競技のように共通ルールなんてものはない。理不尽で、弱肉強食で、始まりの場所と持って生まれた能力で人生の大部分は決まってしまう。そこに災害や不況に疫病など、様々なトラブルが発生する。他の競技者に邪魔されるどころか、周りを囲まれてボコボコにされることもある。地域ごとに法律という基本ルールすら変わる、サバイバルなゲームだ。
なので、どれほど調査・分析をじっくりして人生計画を立てたとしても。予定通りにはまずならない。状況に合わせて修正できないような計画は役には立たないのだ。ある意味、失敗が約束されているのが人生計画だ。思うようにいかなくても自分を責める必要なんてない。そういうものなのだ。
たまに、今困っている人を「努力が足りない」と責める人がいる。人にはそれぞれ事情がある。そして、深刻な事情ほど表には出せない。本人以外が知れるのは、全体のほんの一部だ。その一部をみただけで判断するのは、どうなんだろうか。
正直、人生というのは運の影響がとてつもなく大きい。通常なら延期すらないオリンピックが感染症の流行で開催できないなんて不運以外の何物でもない。この不運の結果、人生計画が狂った人の数は万では済まないだろう。
そんな努力なんて意味がないと思ってしまいそうな人生だが、一応は希望はある。津波に流され何日も海を漂流しても生き残るなど、どれほど絶望的な状況でも幸運により助かることがある。数合わせで参加したオーディションで選ばれるなど、通常なら想像しない場所への扉が開くこともある。努力というのは、人生を思い通りにするためのものじゃない。『不運に耐え、幸運を活かす』ための準備運動のようなものだと、私は受け止めている。そして、計画は努力をうまく活用するための道具だ。
そういう視点でみると、
計画通りにいかなくても落ち込まずに済むんじゃないかな。
人生計画が壊れて嘆く。
参加者の発言を聞きながら、思ってしまった。
私?
最初からデスマッチなスタートだったので。
生きるか、死ぬかの場面では
計画を考える余裕なんてないのだよ。
この先なんて1㎝先もはっきりと見えない。
完璧な計画なんて、立てられるはずないだろ?
自己紹介でもある記事
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