死の恐怖は加速装置なんだな
2020年10月4日 自宅
改革がうまくみえたようにみえても。
安心するには早すぎる。
近くの図書館が郵送サービスを始めていた。最寄りの図書館は通院の通り道にある。前回の通院時、ちょっとだけ覗いてみたら消毒液と本を消毒する紫外線装置が置いてあった。図書館は変化の少ない場所だ。そんな場所すら変えていく、感染症の流行の影響力に思うところがあった。
「問題が起きてないから、このままでいい」
「新しいシステムなんて金食い虫だ」
「慣れたやり方が一番いい」
何かを変えようとすると、必ず否定する人たちが出てくる。平常時は反対が強すぎて実行するまでに時間がかかることが多い。けれども、非常時はどれほど反対が強くても押し流す力が生まれる。今回の感染症の流行もそのひとつだ。あれほど抵抗が強かったテレワークすら、すさまじい勢いで広がっている。東京都への一極集中の解消をしようと様々な対策をしてもほとんど動かなかったのに。感染症の流行により、人や企業が地方へ向かっている。
私は感染症の流行を『開始のベル』と呼んでいる。
感染症の流行後に、時代が大きく変わることがとても多い。死への恐怖というのは、ほとんどの人にとって大きなショックのようだ。死を避けるためなら、多少のことは飲みこむ。生存を理由にすれば反対の大部分は潰せるのだろう。日々のニュースで、「感染症の防止のため出勤を減らす」「感染症の流行による景気悪化のため工場閉鎖する」とか流れているが。感染症の流行を大義名分に、やりたかった改革を進めている組織もあるんじゃないか。つい、深読みをしてしまう。
そう捉えると、死の恐怖は改革を推し進める加速装置のようなものにみえてくる。多くの組織で改革が進むのだ。時代の動きが激しくなるのも無理はない。だとすると、感染症の流行後に戦争が起きやすいのも不景気だけが原因なのだろうか。感染症の流行が収まることで死の恐怖が除かれることで、改革への抵抗を抑えていた力が消える。その抵抗勢力が巻き返しを図った結果が戦争につながったのだとしたら。
たとえ、不景気をゆるやかにできたとしても。
きな臭い展開になりそうだ。
実際に、感染症の流行がまったく収まっていないのに世界中で争いが増えている。感染症でドタバタしてる今がチャンスと、テロが以前よりも激しくなった地域もある。死の恐怖は、どうしても人から冷静さを奪ってしまう。私のように、死が腐れ縁な生き物は平常心でへらへらしているが。恐怖が広がっている状況は、争いの火種が盛り上がりやすい。
すでに世界中が大混乱中なのに。
まだ、嵐の前の静けさかもしれない。
混乱の本番はこれから、
そんな可能性がみえてしまった。
まぁ、一個人ができることは多くない。心の平穏を保ちつつ油断しないことぐらいだ。日本は災害国家だ。追い打ちのように、地震や水害などが襲ってきても想定外とは言えない。
トラブル時は、さらにトラブルが起きやすい。歴史がそれを証明している。私自身も身をもって味わった。「なんでこんなときに」と嘆きたくなるタイミングでトラブルの追加が届けられる。そして、死が絡むとよりひどくなる。
今回は世界レベルの死の恐怖だ。
現状の騒ぎで済むはずがない。
せめて、人類にとって良い改革が多めに加速されることを祈るばかりだ。
死の恐怖は強い。
大事な人を亡くした哀しみと怒りも強い。
その強さは、時代を動かすエネルギーになる。
そうだとすると、
人類とは
多くの死がなければ
変われない集団なのかもしれない。
より良くなる変化なら救いはあるが、
起こった変化が次の死を呼ぶことも少なくない。
死は生きるものの宿命とはいえ、
なんとも酷い話だ。
自己紹介でもある記事
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