健康は時間を浪費する
2020年10月5日 自宅
贅沢をしている自覚もない。
もったいない話だ。
清々しい目覚めだ。
そんな日は私にはない。痛いのがマシな日か、痛すぎて動けない日しかない。まぶたを上げる。それすら、すぐにはできない日がある。寝ている時間に咳の発作、涙がにじんで目やにと合体、まぶたの角がのり付け状態になっているのだ。強引に開くこともできるが、涙という塩水にコーティングされた目やにが眼球を直撃、1日ずっと目が真っ赤になったことがある。言うまでもなく、すごく痛かった。涙もボロボロ出た。なので、まぶたについたゴワゴワを指で取り除いてから目を開ける。
そのあとは、身体の動作チェックだ。手をグッパー、腕と足の曲げ伸ばし、腰をグリグリ、痛みの強さと動きやすさを確認する。この動作チェックが軽い準備運動になっている。何もせずに起き上がろうとすると、体が誤動作して転んだりする。起き上がれたと思ったら、手渡されたコップを持つ力が抜けて落としたりする。痣ができたり、やけどになったり、切り傷が増えたり、生傷が耐えなくなるのだ。本日の体調を測り、ケガを未然に防ぐ身体の動作チェックは欠かせない。
そんなこんなで、起き上がるのに少なくとも1時間はかかる。ひどい日は半日、いや起き上がれない日もある。目覚めてすぐに起き上がれる人と比べると、時間の消費量の差がひどすぎる。起床時以外でも、貧弱ゆえに健康な人より時間がかかる場面はたくさんある。まどろっこしいと思う日はあるが、時間をかけないと入院とかもっとひどい事態になりかねない。生活の必要経費のようなものと捉えている。
というわけで、自由に使える時間が健康な人より圧倒的に少ない。だから、やりたいことに時間のほとんどをツッコむ。人との付き合いで出たくもない会に参加するとか、面白ない本を最後まで読むとか、つまらない動画をダラダラ観るとかはない。大事なことに使う時間すら足りないのに、どうでもいいことに時間を使える余裕なんてない。
そんな生き物からみると、健康は良いことばかりじゃないなと感じる。健康な人は「行きたくないけど仕方なく」「やることがなくて暇だ」「周りがやっているから、なんとなく」と、やりたくないことに時間を使っている。この思考は、健康だからこそ思い浮かぶのだ。先に続く未来があると信じ、自由に動かせる身体をもっているからこそ時間を浪費できる。「次の瞬間、死んでいるかも」「明日は身体が動かないかもしれない」と感じていたら。そんな時間の使い方はしないだろう。
これ、お金に例えるとわかりやすい。生活できるギリギリしかお金がないと、生きるための費用と食費を削ってでも欲しいものしか買わない。自由に使えるお金が増えると、一度しか着ない服や周りが持っているからと興味のないモノ、食べきれないほどの食品を買ったりする。どれも仕舞いこまれて、いつかは傷んで捨てられる。このお金の浪費と時間の浪費はよく似ている。「まだまだある」と無意識に思っているから浪費するのだ。
ただ、お金と時間には大きな違いがある。
お金は今いくらあるか、どれだけ手に入るか。完璧でなくても予測できる。時間はどちらもわからない。いつ死ぬかなんて、人には計測する術がない。実際に。成人が危ぶまれた私は30歳を過ぎても生きている。それなのに、高校時代に同じクラスだった健康な人は成人を迎えることなく事故で亡くなった。
「まだまだ時間がある」
これは、ただの妄信にすぎない。
それなのに、健康な人は明日も大丈夫教の信者が多い。そういう信仰を抱える隙が無いのは貧弱体質の利点だ。少なくとも、この世から離れる日に胸に浮かぶ後悔は時間を浪費した人たちよりも多くはないだろう。
健康は素晴らしい。
代わりに、時間の浪費には気づきにくい。
良いことばかりの現象は、この世にはないんだな。
時間の大切さをしる貧弱な人
失うまで気づけない健康な人
まったく、世の中は皮肉で溢れている。
そのモノの価値を最もよく知るのは
そのモノを失った人か、はじめから持っていない人である。
自己紹介でもある記事
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