歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【歩くリトマス試験紙の反応記録】どんな傷も致命傷になる

どんな傷も致命傷になる

 

2020年10月12日 自宅

 

どれほど、ひどい環境にも。

 

人は慣れてしまえる。 

 

 

うーん

 

相変わらず、減らない。

 

「うえたさんに比べたら、甘かった」

 

このコメントが。

 

ツライ経験も、心の痛みも、比べるものじゃない。感じる痛みを無視せず、心身を大切に。繰り返し伝えているのだが。定期的に『自分はまだまだです』なコメントを頂く。確かに、どこから眺めても楽な人生を歩んでいるとは言えないが。目的はそこじゃない。

 

「人生の荒波にもまれても、ヘラヘラ過ごしています」

「どんだけ大変でも、意外となんとかなるものよ」

 

主に伝えたいのはこっちだ。心身に負った傷を甘くみてほしいのではない。だいたい、どんな傷であれ軽くみるのは危険だ。傷の大小に関係なく、どれも致命傷になる可能性を秘めている。

 

おそらく、私は心身共に傷だらけに見えるのだろう。命に係わる傷がいくつもあるので深刻に見える。ただ、私の傷のほとんどは血が止まっている。見た目は派手だが命に別状はない。『まだまだ甘い』とコメントをくださる方の多くは、傷口がふさがっておらず血が流れている。血が流れ続ければ命を失うハメになる。『大きな傷じゃない』と油断せずに、ササっと診察して手当てしてほしい。

 

傷があると自覚できるうちはいい。もっと怖いのが、傷がみえていないパターンだ。人というのは、どんな環境にも適応できてしまう。体の痛みも、心の痛みも、長く続くと慣れてしまう。人類が地球上に広がることができた稀有な能力だが、個人の健康には害となることがある。

 

例えば、私。

 

未だに1日3食の習慣が身につかない。幼少期~成長期に食事が抜けるどころか、週月の単位で食べられない日が多かった。そうじゃない期間も、体調不良で食事を受けつけない日が珍しくない。結果、1日食事が抜けてもなんとも思わない。空腹状態をあまりツライと感じない。子供の頃は空腹に苦しんだはずなのだが。その記憶もおぼろげだ。世間からみれば異常だと知っているが。ズレた感覚は戻らない。

 

就職氷河期にブラック企業に勤めたことがある。営業職で勤務時間は朝7時~夜10時まで、残業代はない。休憩は昼食だけ、時間は5分ほど。明らかに労働基準法を違反しているが、当時は珍しくなかった。会社の人たちが当たり前のように過ごしているので、異常だと知っていながらも受け入れていた。他の会社に営業中にスカウトされて3か月ほどで辞めたが、スカウト先で待遇の差に心底驚いた。3か月のうちに、異常が当たり前に変わっていたと気づいた。「慣れって、怖いな」、心が震えた。

 

こんな風に、他からみれば異常な状況ですら人は慣れてしまう。慣れた状況で負った傷というのはみえにくい。命を危険にさらすほど大きな傷になっているのに。血も噴き出ているのに。「なんか腕が汚れている。泥でもはねたかな?」という認識になっていたりする。

 

生きる環境というのは、常に自分で選べるわけじゃない。慣れというのは心の防衛システムで、ツライ状況を耐えるのに有効だ。人に慣れというシステムが無ければ、私も心を壊していただろう。けれども、心身の致命傷に気づけなくなる弱点もはらんでいる。心身の傷のどれが放置すると致命的で、どれが自然治癒でも治るのか。自分自身で判断するのはとても難しい。だからこそ、どんな傷も捨て置かず手当てに走る。これが、手遅れになる前に防ぐコツだ。

 

深い傷ほど治りにくい。

治ったとしても、トラウマという名の傷跡が残ったりする。

 

どんな傷も甘くみるものではないのだ。

 

 

すぐに手当てをすれば、治ったはずの傷を。

 

多くの人は、手遅れになるまで何もしない。

 

後で悔やんでも、もう遅い。

 

体の傷とは違い、

心に残った傷を消す手術なんて存在しないのにね。

 

 

 

 自己紹介でもある記事

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