歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【歩くリトマス試験紙の反応記録】物語が唯一のつながり

物語が唯一のつながり

 

2020年10月24日 自宅 

 

穴ぼこだらけ。

 

だけど、これだけは途切れていない。

 

 

最近は、1回の外出もしない月もある。なので、あまり困らないが。外出中に誰かと話すとき、『表情は笑顔、内心は弱り顔』になることがたまにあった。ある時代が話題の中心になると頭を普段の2倍は回すハメになった。

 

子供時代

 

なにせ、貧弱体質・貧困・虐待など場の空気を乱す体験が中心だ。アレルギーが酷かったので流行したお菓子なんて食べていない。修羅場な家で、のんきにTVを観てられない。学校にあまり行ってないので、行事の思い出もほとんどない。おもちゃを買ってもらうどころか、服を買ってもらったことも数少ない。高校時代なら、いくつかはわかるのだが。小学校3年~中学校時代はお手上げだ。中学校時代は、解離性障害により記憶が失われている部分が多い。キャベツがあおむしに食い荒らされたかのように穴だらけだ。食われた部分よりも残っている部分が少ない。

 

こんな青汁よりも苦い話を口にするわけにはいかない。聞き役に回っても、何も話さないというわけにもいかない。ただ、私には頼れる味方がいた。物語だ。不思議なことに、物語の記憶だけは残っている。TV番組やお菓子やおもちゃとは違い、物語は子供の世界では流行の影響が少ない。「本ばっかり読んでいたから」で話は済む。懐かしい話が中心の時、周りとの共通点が少ないものはすぐに流れていく。その場を取り繕うのはこれで十分だ。

 

なぜ、物語だけが残ったのか?

 

何を食べたか。

どこにいたのか。

誰と会話したのか。

 

日常生活の記憶はすっぽ抜けているのに。物語の記憶だけはバッチリと残っている。本・動画・ゲームなどに描かれた世界の景色だけは途切れることなく続いている。記憶が始まったころから、今この瞬間までずっと。

 

よっぽど、好きなんだな。

 

これだけは手放さない。

 

怨念のようなドロリとした執着を感じる。

 

どうしても、貧弱体質の人生というのは諦めが多くなる。健康な人がすぐにできることが一生叶わない。そういう物事が日常に転がっている。叶わない執着は自分を壊す。だから、しがみつかないように生きてきたのだが。自分の感情というのは自由にならないものだ。どれほど自制しても、物語に対する執着だけは捨てられなかった。

 

困ったものだ。

 

だけど、

その執着が安心感をくれた。

 

自分が何をしていたかも、周りで何があったかもわからない。

 

記憶がないというのは不安を呼び起こしてしまう。東京タワーの展望台でガラス床に立ち真下を見るような、どこか落ち着かない感覚を覚える。ドタバタだったので仕方がないのだが、記憶を失った当時の写真がほとんどない。学校の卒業アルバムの中ですら1、2枚しかないという酷さだ。集合写真を撮る場面にいないので、わずかにある写真を丸く切り抜き右上に張り付けてある。10か所に顔があっても、すべてが同じ顔だったりする。文字や数字で存在した記録は残っているのに、記憶だけでなく画像すらわずかしかない。そして、解離性障害は治っていないので同じ状況にならない保証もない。『自分がわからなくなる』、認知症の恐怖に近いものがあるのかもしれない。

 

この不安を物語が抑えてくれている。

 

物語の記憶だけは一本の線のように続いている。何を忘れても、物語の世界を楽しんだ思い出だけは残っている。記憶がつながっていることで、『ちゃんと、自分は存在していたんだ』と思える。もし、すべての記憶がとぎれとぎれだったら。もっと精神は不安定だっただろう。

 

それに。

 

唯一、残ったものが物語の記憶で良かった。あの世に持っていけるものは記憶だけだ。その記憶が恨みや憎しみまみれじゃ哀しすぎる。私はハッピーエンドが好きなのだ。最期も笑って去りたい。

 

この執着の強さだと、

物語の記憶を手放す瞬間は訪れないだろう。

 

執着も悪いばかりじゃないのだ。

 

 

これだけは失いたくない。

 

そいう存在に出会えた。

それだけで、幸せなのだよ。 

 

はらぺこあおむし

はらぺこあおむし

 

 

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