薩摩義士(さつまぎし)に苦難への心構えを教わった
2019年4月26日 自宅
歴史が好きだ。幼稚園の頃に『一休』と『湯川秀樹』の伝記、そして学習まんがの歴史シリーズを読んだ。小学生の頃は、図書館に50冊ほどあった伝記の本を読み尽くした。必殺仕事人シリーズもよく楽しんだ。それから30年以上過ぎたが、変わらず歴史が好きだ。国だとか、時代だとか関係ない。ノンフィクション、フィクション、マンガ、動画、資料館、なにも関係ない。歴史であれば飛びつく。
知人に歴史作家がいる。体を壊していた当時に、出版された本でファンになった。たまたま交流する機会があり、それが今でも続いている。日本の歴史・文化への愛が海底火山のように広く深く熱い。その歴史作家が尊敬する対象のひとつが、薩摩義士(さつまぎし)だ。
薩摩藩といえば、日本の歴史好きなら知っている人は多い。戦国時代や幕末が好きならば、知らないという答えは返ってこない。ただし戦国時代と幕末では抱くイメージが違う。戦国時代は血しぶきを撒き散らす勇猛な戦士、マンガ『ドリフターズ』の印象に近い。幕末は明治維新の立役者、知的な印象である。とても同じ藩の話とは思えない。共通点はある。崩れぬ意思だ。どんな不利なときでも、絶対に諦めない。このイメージだけは、どんなときも崩れない。あまり知られていない薩摩義士の話でも、それは変わらない。
明治維新の中心となった藩には、すべて共通点がある。関ケ原の合戦で破れたこと、徳川幕府を倒す力を秘めていたこと、そして江戸時代にツラい目にあっていることだ。自分のライバルになれる存在の力を削ぎ落とすため、あらゆる苦難を降らせた。最も押しつぶそうと圧力をかけられたのが薩摩藩だった。薩摩義士のエピソードは、その中でも際立って過酷だ。
「治水工事をしろ」という徳川幕府の命令で鹿児島県から岐阜県まで人の移動、費用はもちろん薩摩藩の支払いだった。治水工事用の道具は地元で買えとの命令、しかも地元の人には高く売れとの命令が下っていた。頻繁に洪水が起こるような難所の工事なのに、事あるごとに邪魔が入る。運悪く病気が流行り、何十人も死者が出る。抗議のために切腹する人が出るほど、ひどい状況だった。
責任者はなにも訴えなかったのか。訴えなかった。それどころか、切腹も病死や事故死として処理した。なぜなら訴えたり抗議をすれば、それを理由に薩摩藩が潰されるからだ。万単位の人が路頭に迷う。徳川幕府は、薩摩藩が抵抗してくるのを待っている。口実を与えるわけにはいかなかった。
開始から1年半後、治水工事は完成した。責任者は生き残った人を故郷へ返し、亡くなった人たちの遺族が生活に困らないよう手配をした。そして犠牲者を出したこと、多くの資金を費やしたことを侘びて切腹した。
薩摩義士の話は、あくまで一例だ。薩摩藩を襲った苦難は多い。それでも全てを乗り越え、幕末でひっくり返した。もし途中で逆らう意思を表に出していたら、徳川幕府に潰されていただろう。チャンスがくるまで、じっと耐えたからこその結果だ。
「とても我慢できない」相手を叩きのめしたくなるような、何もかも捨ててしまいたくなるような苦難が襲ってくる。人生では、そんな出来事が何度も起こる。そこで感情のままに動くと破滅する。グッと堪えられるかどうかが、人生の分かれ目だ。耐えるコツは先をみることだ。「今に見てろ」と絶好の機会が来るまで、むしろ笑顔で耐える。もう大丈夫だと、相手を安心させるのが戦いの基本である。江戸幕府最後の将軍を推したのは、誰だったか。
筆頭者は薩摩藩だった。
関ケ原の合戦から明治維新までの流れをみると
恐ろしいとしか思えない。
なぜ薩摩藩は、200年以上も耐えることができたのか。そのヒントも薩摩義士の話にある。治水工事の最中に、薩摩藩の殿様が訪ねてきた。すすめられたご馳走を断り、資金難で余裕がなかったため貧しかった、食事を共に食べた。流行した病で苦しむ患者たち、汚れで悪臭を放つ部屋に入り、ひとりひとりの手を握り「国に返ってくるのを待っている」と伝えた。当時の常識では、ありえない態度だ。だが薩摩藩では珍しいことではないらしい。関ケ原の合戦で敵陣のご真ん中を突き破って撤退した、島津義弘(しまづよしひろ)にも似たようなエピソードがある。薩摩藩の当たり前だったようだ。
苦難の時に耐えられるかどうか、それは普段の行動にかかっている。苦難のときこそ、本性が現れると言ってもいい。個人も組織も違いはない。例外もない。薩摩義士の話は、日頃の言動と先をみる視点が大事だと教えてくれる。苦難を乗り越える自分でありたいならば、毎日の行動を気をつけることだ。人生のトラブルをすべて避けることなど、できはしないのだから。
ヘルメットの質は、事故に遭えばわかる。
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