歩くリトマス試験紙の反応記録

『ありのままに、ゆったりと、みんなで』

【病院スクランブル】「できない。さて、どうしようか?」

「できない。さて、どうしようか?」

 

2019年5月9日 教室

 

あきらめるは、私の友達である。

 

「あれを食べてはいけない」

「見学していなさい」

「あなたは、こっちね」

 

なにかをするとき、食べるものを選ぶことすら自由になったことはない。思考回路はいつも「自分にとって可能かどうか?」と考えるのが先である。やりたいか、ほしいかの選択はその後である。身体以外の原因でもあきらめることが多かったので、我慢は慣れっこである。むしろ生まれたときからなので、当たり前でしかない。周りを羨ましいとは思っても、不満はあまり感じない。これが30代など成人してからなら、水中で3分ほど呼吸を止め続けるぐらい息苦しかっただろう。我慢は第2の友達である。

 

あきらめる、我慢、この2人の友達が、もうひとりの友達を連れてきた。その名は、先読みである。望みが絶たれ続けたら、精神が持たない。持つ人もいるかも知れないが、私には無理だった。だから、考えた。

 

「どう言えば、希望が叶うだろう?」

「どこまでなら、耐えられるだろうか?」

「どこかに、別の方法はないか?」

 

相手の反応や自分の心身を観察して情報を集め、願いが実現するよう対策を練る。うまくいかない場合は、だめな部分を見直し再チャレンジする。お菓子を欲しがるときから、本を買ってもらうとき、遊園地に行くとき、思いつく限りいろいろ試した。なんとも可愛げのない幼稚園児だった。これに読書好きと将棋・囲碁プレイ、目覚まし時計の分解が紐付けられている。もはや年齢詐欺である。子供時代と言っていいのかすら、疑問を感じる。

 

誰しも、人生の壁にぶつかる。自分ではどうすることもできない障害に行く手を塞がれる。だが、そこで受け入れるのは”障害がある”、これだけだ。別に行く先をあきらめる必要はない。目標を低く設定する必然もない。他の道はないかと探すだけだ。

 

あきらめは、はじまりに過ぎない。

 

<<2019年5月10日に続く>>

思考の整理学 (ちくま文庫)

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