コメント耐性に幸福度が現れる
2019年5月30日 自宅
ツイッターでコメントが届いた。
「変なポエムで政治を語るな」
投稿を読んだ上での反応だと察した。文章を箇条書きしたのが、詩と受け取られたらしい。そんな格式高いことを書いた気持ちはゼロなので「???」状態である。内容の解説に感謝を添えて返信した。好意的なコメントが返ってきた。「?????」である。
どんなコメントも私にとってはありがたい。命に等しい貴重な時間を使って文章を読み、それだけで終わらずコメントを届けてくれた。感謝、感激である。たまにセクハラや罵詈雑言などの困ったちゃんな反応が来て戸惑うが、コメントの9割は感じたことをまっすぐに伝える内容だ。困ったちゃんコメントは感想をくれる方への感謝の気持ちを増幅する、料理にアクセントを加えるスパイスのようなものである。スルーするのは”自分の欲求を満たしたい”だけの、文章を欠片も読んでいない人コメントのみだ。
ツイッターで投稿している人は、利用している人の10%もいないと言われている。その理由のひとつはコメントだろう。批判を受けても受け流せる人は、投稿している人ですら多くはない。もし多いなら炎上商法なんて成り立たない。批判を恐れるのは、人間としては当たり前の感情だ。
私だって、批判されるよりホメられる方が嬉しい。耳に痛い指摘は凹む。セクハラされれば嫌な気持ちになる。挨拶もない営業コメントを面倒だと感じる。ただ、そんなコメントを引きづらないだけだ。むしろ、良い反応ばかりになる方が恐怖だ。耳に心地良いことばに囲まれれば、有頂天になって落とし穴に落ちる。イエスマンしかいない経営者のような末路がみえる。そんな未来はゴメンである。
コメントへの対応を観察すれば、その人の幸福度はだいたい測れる。人生への対処と同じだからだ。自分にとってなんの益もないコメントに囚われるのは、言い換えれば嫌なことに意識を集中している。そういう人は普段の生活でも、嫌な気分になる物事に焦点を合わせている。それでは楽しい気持ちで人生を過ごせない。幸せそうに見える人は、嫌な出来事が起こっていないわけじゃない。自分にとって重要なものに集中して、物事のいい点に目を向けているからだ。そして、コントロールできないことは受け流している。幸、不幸の違いは自分で制御できるものを重視しているかの違いとも言える。コメントは、自分では決められないもののひとつだ。
ちなみに、何でもプラスに取っているわけではない。不快な気持ちになるものまで素晴らしいと感じる必要はない。どれでもポジティブは精神科への最短距離を爆走するようなものだ。例えば、セクハラするアカウントは即ブロックしている。「フォロワーが増えたんだから、セクハラも歓迎」なんて思考は私にはない。マイナスを呼び寄せるだけの不快な対象は、視界から取り除く主義である。ネガティブと言われる感情も、大事だからこそ存在する。見ないふりはトラブルの元だ。『喜怒哀楽』がポジティブ2、ネガティブ2で構成されているのは偶然ではない。
降ってきたコメントの
どれを重視して、どれを受け流すか?
重視したコメントから
なにを受け取って、どう活かすか?
”コメント”を”経験”に置き換えれば、
そのまま人生を乗りこなす原則と同じになる。
<<2019年5月31日に続く>>
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