『病院スクランブル』 ”和”=仲良く、ではない
2019年3月25日 自宅
憎しみについて考えると、どうしても思い浮かぶ言葉がある。平和、和解、『和をもって尊しとなす』など”和”の言葉だ。
”和”を、「みんなで仲良くすること」と思っている人が多い。私は、違うと感じている。世の中に存在する人すべてとおててつないで仲良くなんて、理想論だからだ。人に感情というものがあるかぎり、対立は必ず起こる。できると思う人は、周りの人たちの味噌汁の好みを聞いてまわればいい。全員の答えが、同じになることはない。自由意思がる限り、必ず意見は分かれる。
『和して同ぜず』、これを”意見は尊重するが、肯定するわけではない”と受け取っている。”和”とは、互いの意見を認めることではないだろうか。そこに、賛成するか反対するかは含まれない。
無理に同じ意見で統一しようとしたり、多数決を押し通すからもめる。予算会議やルール作りなど、ひとつしか選ばれない時は仕方がない。だが、まとめる必要がないことまで、同じにする必要性はない。村八分という考えは、多様性が広がった現代には合わない。
憎しみ合った関係を、強引に仲良くしようとするから関係悪化をまねく。そんな簡単に感情が納得するなら、この世のトラブルなんてない。熱したガラスふたは、素手で触れるまで待たなければならない。冷める前に水をかければ、割れて使い物にならなくなる。時間が必要なパターンは多い。深い憎しみは熱した油のようなもので、水をかけたら水蒸気爆発する。周りの被害が飛び散ることは、避けられない。
いじめ、虐待、犯罪など、痛ましい事件をしるたびに思う。「離れれば、最悪の結果は防げたのではないか?」と。たいてい元の関係に戻りたがるのは、加害者側や周囲である。つぐないたがるのも、謝罪したがるのも、加害者と周囲だ。被害者が求めたのでなければ、すべて罪悪感を軽くしたい加害者や周囲のエゴである。または、優しい自分に酔っているだけだ。被害者の心が置き去りであれば、崖の側にいる人の背中を押す行為でしかない。ただの、傷口に塩である。場合によっては、命を奪う毒になる。
例えば、双子が同じ家庭で育ち、似たような経験をしても、ちがった感想を得る。逆にまったく共通点のない人生を歩んでも、同じ感想を抱く。自分にとって良かった悩みへのアドバイスが、他人に当てはまるとは限らない。高血圧の人が体が重い症状が同じだからと、脱水症状の人に「塩分を取るな」と言うようなものだ。
私は普段、父と離れて過ごしている。きっと毎日いっしょの生活なら、貧困時代のトラウマに飲まれて、心身が壊れるだろう。たまに会うから関係だから、明るく迎えられる。それでも友人には、「あんな目に合わされたのに、笑顔で話せるなんておかしい」と言われる。別に父のためではない。負の感情に足を取られたくない、自分のためだ。父を許しているかは、わからない。
”和”を使う言葉は、言うのは簡単だが実現は難しい。”和”を装うのは、まだ楽だ。けれども真に実現するには、本音の対話と時間が必要だ。これは個人も、集団も高難易度であることは変わらない。
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